ユートピアについて その26

 ユートピアの名ははじめイギリスの大法官トマス・モアによって創造され、その起源は古代地中海の対話編に求められ、物理的実在としては小アジア・ミレトスのヒッポダモスの計画に類例が見いだされ、都市計画としてはルネサンス期のイタリアから近代のパリにもみられ、西欧世界の近代を通じて類似物が多く想像され、20世紀には逆ユートピアのかたちで隆盛を見、21世紀にいたるまでその系譜は続いている。

 この「ユートピア」、理想社会は、ディストピアフィクションおよび先行するユートピアフィクションにおいて全球的な拡大をみせる例もあるものの、モアによる最初のユートピアをはじめとして、一つの都市、島、ないし国家という空間的な限定を伴うものが多くある。少なくとも範型的には、ユートピアとは空間的に他から隔絶され、お定まりの予定表に従って日々の労働と余暇が過ごされ、誰もが同じようなものを食べ、同じような服を着、同じような家に住む、平等主義的な社会である。居住者は大きく統治者と生産者に分かれ、軍人が前二者から独立して存在する場合もあるが、どの階級であれ奢侈は排される。むしろ上位に位置する統治者ほど質素な生活を営む。

 教育は各家庭ではなく国家の、社会の役目である。多くは赤子のうちに親元から引き離されて集団生活を送り、適正に応じて何らかの職掌に就く。ひとりにひとつという固定的な職掌を持たない場合もある。労働時間は短く、残りの時間は遊戯、運動、思索、談話のために用いられる。搾取も、その原因となる富への欲望も、ユートピアには無縁である。モアは「羊が人を食う」という誇張的な修辞によって土地を追われる零細農民の苦難を表現し、食うに困った流民が犯した罪に対して厳罰で応じようとする行政に反対の意を示した。流民による犯罪は、元をたどれば彼らが持続的な職掌に就きえないから起きる。要するに盗みを働く彼らは土地を追われた農民なのである。ジェントリーの強欲によって食うや食わずの境涯に置かれ、盗みを犯さざるを得ない流民たちに同情するモアは、誰も住む場所、働く場所を追われず、衣食住の不安に苛まれることのない理想社会を思い描いた。まさにこのことのゆえに、資本主義社会の罪悪を一掃した未来がユートピアと呼ばれもしたのだが、未来へ至るための退行状況において数多くの悲惨が展開され、「未来の理想の場所」、いまだきたらざる・よしとおもわれる・ところ、は昔日の輝きを失いながらエレホンに浮かんでいる。

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 理想の社会、共同体、場所という主題は洋の東西を問わず数多い。ユートピアとその仲間たちが他の「理想の場所」と異なるのはどのような点か。まずユートピアは人工的な空間である。エデンの園やアルカディアのような人の手の入っていない庭、過ごしやすい場所と比べて、ユートピアは地峡を削り、川を埋め立て、山を崩して平らげ、壁と運河を巡らせる。それは見るからに人工都市である。鉄筋コンクリートビルが突き立つあからさまな重工業的巨大都市でなくとも、人為によって周到に整備されている点は、ユートピアとエデンの園を分ける。

 同じ理由で、自然に返ることを主張するあらゆる運動ともユートピアは区別される。近代ではドイツ裸体運動、中世ではアダム派の運動がそれぞれ西欧に起こったが、これらは人為を嫌い衣服を脱いで、原初の状態へ還ろうとする。ユートピア人は等しく同じ衣服を着る。ユートピア人が帰るのは運河と城壁に囲われたユートピアだけである。

 未来志向の運動と比べるとユートピアはどのように異なっているか。千年王国の運動は11世紀以来欧州に数多く起き、モアと同じ時代には、神聖ローマ帝国にトーマス・ミュンツァーが農民を指導して地主階級への蜂起を企てた。これらの運動はまさに既成体制に対する叛乱であり、破壊的な性格を基本としている。ユートピアも、その起源、建設の時期においては、環境を一挙に破壊し、整備していくが、出来上がってしまえばそこには千篇一律の繰返しばかりがある。何物も破壊的な調子を持つことはない。誰もが同じように生まれ育ち、生きて死ぬ。構成要素は入れ替わっても描かれる模様は変わることがない、結晶体のような静謐がある。

 ユートピアは人為による支配が貫徹された場所である。定められた制度には最高の支配者さえ従う(むしろ最高の支配者たちは最高の知者でもあり、その良知のゆえに制度に従うとも言われる)。人も物も規則に従い、千篇一律の調子で都市の構成要素として生き、使われ、壊れ、死ぬ。万物が従うべき理想の規則が把握されているならば、それに従わない理由はどこにもない。19世紀末にいたるまで欧州に増殖した諸々のユートピア、「ユートピア的なもの」――なぜなら「ユートピア」はモアによって造られたただ一つであり、それ以外はすべて彼の模倣だからである――は、かくして一切を従属させる最善の観念の体制となるにいたる。

 このような観念的性格は、ユートピア的なものたちから時間性を奪い去る。時間は経過する、しかし経過にしたがって変化が起きることはない。ひとりひとりは生まれ、生き、死ぬのだが、死者が果たしていた役割は即座に他の者によって補われる。死者ははじめからいないのと変わらない。一切は全体を構成する部品である。自由は無い、少なくとも完成された体制からの逸脱の自由は。

 変化の不在は、地中海世界とその周辺においては存在の、高次の実在の表徴である。変化・時間性もまた存在には属さず生成に属する。変化しないユートピア的なものたちは時間性を有さず、存在に近い。観念が一切を従属させているなら、もはや変化と呼びうるなにものも起こりえない。ユートピア的なものたちの営為は、あたかも永遠に続く。

 時間性を欠いたユートピア的なものたちは、歴史を持たない。歴史は何らかの特筆すべき事実を過去から拾いあげて書かれる。しかしユートピア的なものたちの内には、特筆すべき何物もない。変化は生じず、あたかもすべては等しいからである。

 小説に歴史性を導入しようとする李琴峰の目論見と、ユートピア的なものたちの無時間性が、こうして対立する。

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