ユートピアについて その17

 エミール・シオラン『歴史とユートピア』を読み終えた。最後の二章のみユートピアにふれており、前段の四章はみな歴史についての省察で占められる。
 最終第六章「黄金時代」は、ヘシオドス『労働と日々』の、黄金時代、過去に実在した理想的天地を語る言葉の引用から始まる。エデンの園と同じ紋切型であると言いつつ、シオランはこうした理想的世界について次のように述べる。

 そういう世界では、同一性が絶えずみずからの姿を熟視しつづけ、永遠の現在があまねく満ちわたっている。これこそ、あらゆる楽園幻想に共通の時間、時間の観念そのものに対立させるべく案出された時間である。永遠の現在を抱懐し、これにあこがれるためには、生成を唾棄せねばならず、生成の重荷と災厄とを実感し、何がどうあろうと生成から離脱したいと希わねばならぬ。(p. 156.)

 これは、ジル・ラプージュが博物誌的に数多くの事例を示してユートピアに与えた規定の哲学的表現である。ジル・ラプージュはその『ユートピアと文明』にて、古代ギリシアや中近世イタリアの都市計画、円形の文字盤を持つ機械式時計の発明について語り、ユートピアが生成における時間を欠いた抽象的な特徴を有すると規定した(後日適した引用を示したい)。
 これを伝統的な形而上学の言葉で表せば、上に示したシオランの引用のようなものになるだろう。ソクラテス以後の形而上学では人間の肉体や石、動物、自然に存在するものはみな生成という一般項にまとめられ、これに対置されるものとして抽象的・理念的な性格を持つ存在が与えられる(※1)。時間的概念対を以てすれば、生成:存在=時間:永遠となる。生成=時間の中にある人間は、朝は四本、昼は二本、夜は三本の脚で歩くが、実在する永遠の人間、要するに人間のイデアは常に一つである(※2)。この古代ギリシアで設けられた概念対は以来ギリシア語・ラテン語圏で広く用いられてきた。生成、それは時間の中で生まれ、育ち、芽吹き、腐食し、削られ、老い、死に、壊れる、全てのものを指す。ユートピストはこれを憎み、イデアルなものを生成の中に実現しようとする。

 ヴィーコの抱いた理念、「理想の歴史」を構築してその「不滅の円環」を描いてみせようとする理念は、社会に応用されつつ、ユートピア体系の中にも姿を現わす。ユートピア理念の中核は、「社会問題」の決定的解決を目指すことである。そこからこの体系の、不動化された「可能事」の、つまり永遠の現在の偽作の一種たる、即刻の未来において、確立しようとする焦燥が生れる。(p. 163.)

 重要なのは、ユートピアの実現が構想されるとき、その実現の場はイデアの世界(=永遠の現在)ではなくその偽作の一種である即刻の未来、すなわち生成の内であるということだ。ルネサンス的ユートピア以来、ユートピアとは現実に対する強烈な批判を含むひとつの理念であり、読者の属する生成世界から遠くかけ離れた、一種の画餅のようなものであったのだが、とりわけ20世紀を迎えてからというもの、理想社会を名乗るものはその実現をいっそう強く志向するようになり、ユートピアの実現が怖れられる次第となった(『すばらしき新世界』のエピグラフに選ばれたニコライ・ベルジャーエフの一節、「『侍女の物語』をこれからのアメリカの青写真にしてはいけない」と主張するアメリカ合衆国のウィミンズマーチ)。

その一般的構想において、ユートピアとは歴史の水準における宇宙開闢の夢である。(p. 166. 太字は原文では傍点)

 ――この最終第六章では第五章におけるユートピアの主題と第四章までの歴史の主題が綜合されようとしている。ユートピアというひとつの理念ideaが現実化realizeされようとするとき起こるideaとresの相克、悪しき意志を持つ人間が「社会問題」の決定的解決を求めて招来する悪徳が、ルーマニアの悲観主義者の筆から語られる。第六章冒頭ではユートピアに通ずる「理想社会」の形象が「永遠の現在」と「同一性」という二つの特徴を持つと言われる。ユートピアはエデンや黄金時代と似ている。ユートピアはエデンや黄金時代と同様に永遠的、無時間的な性格を持つ。では、エデンや黄金時代とユートピアはどのように違っているのか?(※3) ――稿を改めて書く。

※1 一目でわかるように生成の説明で使われた「存在」と生成に対立する「存在」は同音異義語であり、後者は「(真)実在」とでも言い換えた方がよい。様々な理由からこの区別は曖昧であり、ソクラテス以前のギリシアでも「存在」(実在)はしばしば生成と同一視された。この辺りの平仄と解釈についてはマルティン・ハイデッガー『形而上学入門』に詳しい。

※2 プラトンは人間のイデアとして二本脚で歩く大人を想定しただろう。あるいはヘラクレスのように鍛えられた肉体を持つ勇壮な男かもしれない。

※3 また、歴史(=時間の内部での生成)とは相反する性格を持つユートピアを歴史において実現しようとするとき、何が起きるか? ユートピアが歴史と相反するものであるなら、ユートピアないし反ユートピアとみえる舞台に歴史が挿入されるとき、それは既にユートピア(的なもの)の崩壊、破綻を示しているのではないのか? 

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