ユートピアについて その10

アトウッドについて書くとなるともう本当にこれっぽっちもユートピアではないしユートピア島とは関係がない。

小谷野敦が「ディストピアとは理想社会の失敗例のようなもので最悪の社会を最初から描くつもりならそれはディストピア小説ではなく嫌な世界小説である」と、おおむねそのようなことを書いていたが、『すばらしい新世界』と『侍女の物語』を併読するとその違いがよくわかる。両者の間にある『1984年』が未読なことに非常に大きな問題があることは措くとしても……。

「ユートピアについて 9」で書いたように、ハクスリーが『すばらしい新世界』の中で描いたものは「われわれの目にはどれほどおぞましく見えようとも、その未来世界=ユートピアは確かにわれわれの切実な願いを実現しているのではないか?」という問いに集約される。ハクスリーは20世紀の人間であるから当然、読者と同じように、フォード紀元の未来世界を異様なものとして捉えてはいる。とはいえ、老いを克服し、労働その他の苦痛(πολεμοςとも言います)を条件付けによって取り除き、安全な麻薬的快楽と他者との合一感覚を摂取できる社会は、毎年二万人が自殺し、老いれば健康を失わざるをえない現代の日本と比べても、より良い社会であるようにも見える。何より世界が一つの政府によって統一されている以上は破局的な戦争も起こりえないだろう。軽く眺めてみる分には理想的なこの社会が、まじまじ見てみるとどうにも具合が悪い――という葛藤がある。ユートピアの逆を行くものとしての「ディストピア」小説として、『すばらしい新世界』は王道を行くものである。

対する『侍女の物語』は、後半にさしかかった辺りで回想のかたちで明らかになるが、アメリカ合衆国に相当する地域に成立したキリスト教極右の革命政権・ギレアデ共和国を舞台としている。独自の軍事力をもつギレアデ政権は議会に乱入、火器を用いて連邦議員を殺害したのち、支配地域の女性から労働の権利と所有権を剥奪(語り手の女性――500ページ近い作中でいっさい本名が明かされない――は口座預金を当時の夫へ一本化されたようだ)、その後のあれやこれやの改革を経て、女性の妊孕能力の国家による管理という凄まじい政策を実現させる。1984年に書かれ、1985年に出版されたこの小説の舞台設定は、70年代末に起こったイラン革命と、その結果成立したイラン・イスラム共和国を強く読者に想起させる。

鴻巣友季子は『侍女の物語』に対する読者の反応を次のように書いている。

一九八〇年代半ばから一九九〇年代(『侍女の物語』の邦訳は一九九〇年)、まだ日本の読書界ではディストピアという概念も言葉も広くは知られていなかった。そのため、人々はこれを「寓意的な空想小説」か「ファンタジー」として読んでいた。そこに書かれた過激な男女隔離体制や、女性を生殖の「道具」に使うという究極の格差社会は、遠いおとぎ話のように感じられたことだろう。/それは、アメリカでもヨーロッパでも同じだったのだ。[中略]『侍女の物語』は一種の訓戒小説ではあるが、いくらなんでもそんな極端なことが自由と対等の国アメリカで起きるはずがないというのが大方の意見だった。

自由と対等の国アメリカ、と言われる。自由と対等、それだけの国であるならどれだけよかったか知れないが、アメリカ合衆国には、前身であるアングロサクソンによる植民開始以来の長いキリスト教の歴史がある。最近の歴史学の見地では、という限定された話になるが、「信仰を求めてアメリカ大陸にやってきた」ピルグリム・ファーザーズが求めた信仰のかたちはプロテスタント一強の神権政治であり、現代でも近代的諸学問の知識ではなく聖書の記述を正当な歴史と見做す人間が数多く住んでいるのがかの国である。政府と独立した武装勢力、という点について言えば、トランプ旋風まわりで話題になったミリシアが存在する。『侍女の物語』で描かれる革命政権は、カナダのアトウッドが何もないところから独創的に捏造したものとも言いきれない。

だからあるいは、神権政治を真面目にやるギレアデをいたって敵視する風に描いてみて、その上でギレアデの体制にありうる理をも意識させる結構であったならば、ハクスリーの衣鉢を継ぐ典型的な逆ユートピア小説であったわけだ、『侍女の物語』は。しかしアトウッドは果敢なるフェミニストであったのだし、侍女「オブフレッド」(Handmaid Offred, すなわち「Handmaid of Fred」=フレッドの侍女、男性の所有物としての女性とその妊孕能力!)として名をも剥奪された学識ある女性を語り手に選んだ『侍女の物語』作中にはびこる陰鬱さは拭い去りがたく、また『すばらしい新世界』冒頭の「工場」のごとく科学的ウンチクがふんだんにもりこまれているわけでもないからSFといってもSpeculative Fictionのように見える。思弁的――というか、一個の思考実験である。もしも「自由の国」アメリカの別側面、大統領をして聖書に宣誓せしむる排他的宗教国家アメリカがその姿を剥き出しのものとしたら、どうなるか? という――

ディストピアの本質は、ユートピアを装った管理監視社会の暗部を抉り出し、その体制の危うさや欺瞞、虚偽性を暴くことにある。

と鴻巣は書いている。ディストピアという観念が自明のものとして言われる。そしてディストピアが監視社会・管理社会と結び付けられる。こうした「ディストピア」の印象はスターリン存命中のソビエト連邦の全体主義的政治体制に多くを負っているのではないか――そしてそうした「ディストピア」像が小説に取り込まれた画期的契機は『1984年』ではないか――と思うのだけれど、思うだけで小説を読んですらおらず、どうにもならない。

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