ユートピアについて その12

『侍女の物語』に登場する神権政治国家ギレアデ共和国は、キリスト教をその思想的背景とする。中盤で語られる〈祈祷集会〉では共和国の指導者層の一人による講話が行われる。その中に、明らかに新約聖書からとられているとみえる一節がある。

「女性にあくまで従順に黙って学ばせたまえ」。彼はここで私たちを見渡す。
「あくまで従順に」と彼は繰り返す。
「だが、わたしは女性が教え、男の上に立つことを許さぬ。沈黙を守ることを望む。
「なぜなら、初めにアダムが造られ、次にイヴが造られたからである。
「しかも、アダムはだまされなかったが、女はだまされて罪を犯したのだから。
「にもかかわらず、女性は出産によって救われるであろう。信仰と慈愛と敬虔を保ちつづけるならば、つねに真面目な気持ちで」

 一連の文言は、テモテへの手紙一第二章十一節以降の文句とほぼ一致する。
 新共同訳から引いてみると、次のようである。

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。
なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。
しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

『侍女の物語』の訳文は、新共同訳の訳文を、第十四・十五節の「エバ」「女」という表記揺れにいたるまで、ほとんど引き写しているかのように見える。キリスト教原理主義国家ギレアデ共和国の指導者層は、新約聖書の所謂パウロ書簡の中から、自らの見解に合ったものを引き出している。
 ここで手紙著者は、婦人はもっぱら教えられ学ぶ地位にとどまるべきであり、男を教える地位に立ってはならないと主張する(「男の上に立ったりするのを、私は許しません」)。そしてその根拠として創世記の記述をもちだす。そこでは男女の創造の順序と、女がだまされ、罪を犯したという事実とが言われる。
 男女の創造の順序については、創世記中に少なくとも二つの記述がある。
 第一章二十七節には、

神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。

 とあり、他方、第二章二十一節以降では

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 と言われる。手紙著者は後者の記述をもって女は男よりも後に造られたと記し、ギレアデ共和国指導者もこれを追認している。
 罪についての記述は第三章にある。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 蛇はまず女に「園の中央に生えている木の果実」を食べるよう唆し、女が「一緒にいた男」つまりアダムに実を渡して彼も食べた。その後主なる神が現れるとアダムと女は木の間に隠れ、神はまずアダムを呼んだ。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 後に果実を食べた男がまず呼ばれ、初めに果実を食べた女が次に呼ばれ、女をだました蛇に行き着く。神は蛇、女、男の順に呪いの言葉を吐き、ふたりをエデンから追い出す。出産と労働の苦しみが神によって与えられ、この挿話は一種の起源譚の様相を呈する。
 手紙著者は「アダムはだまされませんでした」と書いた。確かにアダムは蛇にだまされてはいない。しかし以上の記述をみるかぎり、蛇は女のみを唆したのであり、男が唆されそれをはねのけたのかどうか明らかではない。のみならず、結局のところは男もまた件の木の実を食べたのだから、だまされたも同然である。同然でないとしても、行為の結果としては禁を破り罪を犯したのだから同じことではないのか。
 創造の順序にせよ、女のみがだまされたという指摘にせよ、創世記の記述をみるかぎりやや疑わしい、少なくとも疑わしくないことはない。然るに手紙著者はこの二点を以て婦人の従順を要求する。
 創世記第三章十六節には、

神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め、
彼はお前を支配する。」

 とある。手紙著者は明示しないままにこの記述を以て女の男への服従を要請しているのかわからない。後述のフラウィウス・ヨセフスも女の男に対する劣性の根拠として同節をもちだしている。ヨセフスとパウロないし手紙著者はほぼ同時代人といってよく、創世記の読解の傾向として似通ったところがあるのか。
 婦人の従順と教師・指導者の地位の男による独占を主張する手紙著者の立場は、一方においては男を女よりも高く見積もる点でmale supremacy, androcentrismに属し、他方においては女を男よりも低く見積もる点でmisogynyに属する。疑似書簡を含めた一連の書簡がパウロの手によるにせよ他の信徒の手によるにせよ、それらはパレスチナのユダヤ人ナザレのイエスではなく地中海世界でローマ人と深いかかわりをもった人物によって、また帝国の公用語ではなく文語のギリシア語で書かれた。当時のギリシア語文人の表明する女性嫌悪については、福嶋裕子が旧約聖書続編の一巻のシラ書を、ハンス・キュンクがフラウィウス・ヨセフスの著書『アピオーンへの反論』をそれぞれ挙げている。

女は罪の源
女によってわれわれはみな死ぬべき者となった
律法によれば、女性はあらゆる点で、男性に劣っている[創三16]。したがって、女性は従順にしておかなければならない。それは何も、彼女たちを侮辱するためではなく、男性の指図を素直に受けることができるようにするためである。なぜなら、そうする権威を男性は、神から与えられているからである。

 シラ書は知恵文学に属する格言集であるから断定的に言い切ってそのまま、余計に言葉を費やさない。第二十五章二十四節についても、上に挙げたより長く言いはしない。前段は後段の根拠なのか、あくまで並列のものか。
 歴史家でもあるヨセフスの文章は論駁の一節であるから根拠とそこから引き出される主張がはっきりしている。前述のとおりヨセフスは創世記第三章十六節をとりあげて、男が女を支配することを課す神の言葉から女性の男性に対する劣性を、そこから女性の男性に対する従順の要請を引き出す。こうした態度は創世記の記述にそのまま即して可能か。同時代の読解の傾向がそうさせるのではないのか。
 先ほど起源譚と書いた。創世記の一連の記述は結婚および出産、労働の起源譚である。同時に一連の記述は、パウロやヨセフスの時代の読解によって女性の劣位を説明する起源譚としても機能することとなった。女性は男性に対してあらゆる点で劣る、あるいは、婦人は男の上に立ってはならない、なぜなら女は男より後に造られ、のみならず女がだまされて罪を犯したために人はみな(男さえもが)死ぬべき者となったからである。
 そのような態度を、male supremacyないしはmisogynyと呼んだ。しかし男を上げるにせよ女を下げるにせよ、人という集団を二分し、各個をどちらか一方に例外なしにふりわけたうえで上下が語られるならば、一方が上がれば他方は下がり、下げられればそうでないほうは上がると見て事実上の違いはない。二つの名は、何よりもまず観念上の区別の便利のために用いられている。misogynyにせよandrocentrismにせよ、同じ一つの現象の別の名、あるいは二極に割り振られた一々の名であり、そこで非難されているのは現にある位階序列である。

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