ユートピアについて その21

第21章の謎

 茂市順子「「多相化」するディストピア ―A Clockwork Orange(1962)再考―」2008年、『明治大学教養論集』432号、pp. 77-102. を読んだ。

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/13120/1/kyouyoronshu_432_77.pdf

 アンソニー・バージェスの『時計じかけのオレンジ』(1962)はスタンリー・キューブリックによる映画(1971)のかたちで広く知られている。キューブリックが映画化に際して種本とした米国版は、オリジナルの英国版にあった最終第21章が削除されるという重大な改変を伴なっており、原作者の意図に反した構成のものが作品としては人口に膾炙したことになる。バージェスはこの改変について問われたあるインタビューにおいて、自分や本作は売れ行きを優先する資本主義社会の犠牲者であると語り、1987年の舞台化においてこの第21章をも脚本に組み入れている。茂市はこうした原作者の意図を尊重して、オリジナル英国版の第21章の意義、ひいてはディストピア文学史上の本作の新しさを、出版当時のイギリスの社会状況に関連させて論じている。
 茂市は本作の出来事が展開する主な時期を1960年代前半(つまり出版とほぼ同時期)と仮定し、そこから主人公アレックスたちを1947年前後、第二次大戦後のベビーブーム世代と比定する。第二次大戦後、年少者人口の増大と共に児童労働規制や修学規定に関する法整備が進み、義務教育の期間が延長されたことで、大人と同様に働いていた子供たちは子供たちだけで学校に通い教育を受け、それまでよりも長い時間を子供たちだけで過ごすようになった。同時期に拡大された福祉政策には、全額を一般の税収でまかなう児童手当が盛り込まれた。アレックスらの世代の少年たちは、「これまで以上に「子供」や「青少年」というカテゴリーが強く意識されるようになった時世にて、家庭でも学校においても自らのアイデンティティーを「大人」の世界から切り離して生きることになった」(pp. 86-87.)。
 では「子供」や「青少年」と「大人」はどこ・いつを境に分けられることになるのか。茂市はここで21という数字に注目する。第二次大戦後のイギリスでは米ソ東西陣営の冷戦並びに英領マラヤでの独立民族戦争(マラヤ危機)の発生を受けて有資格者に18か月の兵役義務が課されたが、この兵役義務が課される年齢帯は18~21歳と規定されていた。ルドビコ療法の呪縛を脱したアレックスが時間の経過やそれに伴う環境の変化を自覚した最終第21章は、同時代のイギリスの法制度における象徴的な数字を取り入れることで、アレックスがそれ以前の「子供」から「大人」に変わっていることを示唆している。

ディストピア文学の特質――登場人物と読者に着目して

「第21章の謎」について長いこと書いてしまった。
 ディストピアについて。ユートピアとは逆ユートピア=ディストピアであるという本邦では澁澤龍彦以来?の逆説については脇に置くとして、『われら』『すばらしい新世界』『1984年』に代表されるディストピア文学の特徴を、茂市は次のようにまとめている。引用と見るならやや長いが、これを読めばディストピア文学がわかると言っても過言ではないほど、ディストピアの簡潔な定義として当を得ている。

ディストピアの主人公は,よそからやってきた訪問者ではない。つまり新世界と客観的に距離を保つことのできるアウトサイダーではなく、その社会で生きる一人の人間である。読者はこの主人公の主観と彼/ 彼女に起こる出来事を通してその社会について知ることになる。自分の置かれている環境に不満足で、煩悶し、憤り、もがき苦しむ主人公の価値観や道徳観は、大抵読者のそれと似ているように設定されている。故に、Huxley のSavageが望む「不幸になる権利」やOrwellのWinstonが信じている 「人間としての精神」というものが、読者が望み信じていることと合致することになる。つまり、ディストピアの内部で起きる倫理的に納得のいかないようなことや非人道的な事件に対し主人公たちが反射的に希求するものが、読者にとっては眼前の悪夢的な世界に立ち向かう力であり、恐ろしい未来に進むことを食い止めてくれるものと映るよう、設定されているのである。(p. 83.)

 ディストピア文学の主人公を張るのは、得てしてその世界に不満を持った人物である。そして同時に、彼/彼女は他所からその世界にやってきた「アウトサイダー」ではない。彼/彼女はその世界の内部、時には『1984年』のウィンストンのように支配機構に属してさえいながら、同時に、その世界に不満を覚えている。これが第一の特質である。
 第二に、ディストピア文学の主人公が抱く価値観や信念は、たいてい読者のそれと同じか似通っている。主人公たちがディストピアの悲惨を前に望み信じるものが、同時に、読者が悲惨な現実を前に求める(べき)ものとされる。
 第一の性質によって、主人公は自身も暮らしているディストピア世界のなかでただひとり孤立することになる。そして第二の性質によって、主人公は読者からの共感を集めることになる。読者は、ディストピアで孤立した主人公に深く肩入れし、彼/彼女に同情し、彼/彼女の考えに賛成する。そうしたディストピア文学の一つの頂点としてジョージ・オーウェルの『1984年』があり、その偉大さはバージェスも認めている。
 しかしながらバージェスは、オーウェルを含めた従来のディストピア文学が、その社会にしろ、(主人公を含めた)登場人物にしろ、あまりに抽象的、観念的な性格を強めて描かれているために、いまだユートピアあるいはディストピアのモデル構築という知的遊戯(“the intellectual game of constructing a working model of utopia, or cacotopia”)の範躊から出ていないと指摘する。シェイクスピアとソーマ、プロールとビッグブラザーというあからさまな二項対立が提示され、社会状況は同時代の現実からはひどく隔たっている。そうした建付けでは、舞台も登場人物も、作者による「ユートピアのモデル構築」のための、ひいては現代社会への批判のための人形・書割に堕する。
 バージェスは、人物造形をより多面的に、そして主人公が動き回る社会を現実から容易く想像可能なものに変えることで、「ディストピアとしての現代社会」とそこに住む「特定の個人」(p. 93.)を描くことを試みた。その具体的方法について節を改めて論述する。

地続きのディストピアを目指して――戦後英国と『時計じかけのオレンジ』

 バージェスがとった戦略は、第一に主人公アレックスを国家主導の心的改造の被害者であると同時に暴力を楽しむ危険人物として描くこと、第二に中国、ドイツ、アフリカあるいは中南米の出身であると思しき人物を登場させ時の内閣や科学者たちに絶対的権力を与えないことで、犯罪者の科学的治療・研究を求める世論や移民による多民族国家の形成という戦後英国の同時代状況と作品を重ね合わせること、いわば現実と地続きのディストピアを描くことだった。
 よく知られるように主人公アレックスはルドビコ療法という行動主義心理学の知見を背景に持つ当時最先端の「治療法」を受けることで一時廃人同然になる。この点では彼は国家という巨大な暴力装置に一方的に蹂躙される被害者、受難者である。しかし、アレックスがこのような拷問じみた治療を受けることになったのは、元をたどれば彼がホームレスや市民を襲撃・暴行する危険極まりない悪童だったからである。その所業はキューブリックによる映画でも鮮烈な印象を観客に与える、あるいは暗い陰鬱な画面の続く後半より、映画の前半、野獣派めいた鮮やかなセットの中で繰り広げられる暴力の方が印象に残っているということもありうる。また第二の点に関わるが茂市はアレックスの出自について興味深い考察をしている。彼もまた比較的近い時代に東欧から移ってきた移民の子供で、かれらの使うナッドサッドは移住先の言葉である英語にかれらの父母の言葉が交じり込んだものではないかという。アレックスの両親はそれぞれ繊維工場と国営市場に勤務しており、一方は東欧移民が選びやすい、他方は伝統的な技術を必要としない職である。いずれにせよ労働者=プロールの子供であるアレックスは、『1984年』で洗濯物を干しながら高らかに歌う女性の腹から出てきた子供であり、この点は従来のディストピア文学の主役とは異なっている。
 第二の点については、まず映画では削られた三人の人物、Z. Dolin、 “Something Something Rubinstein”、 D. B. da Silva の存在が挙げられる。反体制作家のアレクサンダーと共に登場するこの三人について、茂市は「Dolinは中国系、Rubinsteinはユダヤ系、そしてda Silvaはインド系またはアフリカ系、中南米系の人間か」(p. 96.)と推測している。こうした出自は、かれらが東欧から、そしてコモンウェルスから英国への移民であることをも思わせる。戦間期の英国は第三帝国から逃亡するユダヤ人をはじめ移民受け入れに積極的だったが、1939年から1950年の十余年で東欧・コモンウェルスからの移民はおよそ二倍に急増した。こうした状況に対する多方面からの反発から、1962年にはコモンウェルス移民法が成立し、Dolinの中国やda Silvaのインドないしアフリカからの移民は厳しい制限を受けることとなった。この法律について有色人種の権利を制限し二級市民の資格を付すものであるとの反論が複数の反対者から上がっている。アレクサンダーと三人の男たちもまた、小説発表同年の成立に至るコモンウェルス移民反対の潮流に反対する活動家であり、国家とは別の権力(パワー)を自らのために打ち立てようとする者たちであった。バージェスと同時代の、また現代でも英国の読者は、発表当時の英国の状況を頭に起きながら、この「ディストピア」小説を読んだ、読む、ことだろう。読者の頭の中で、本作はフィクションであると同時に、まさに現代の/過去の英国がディストピアにほかならないものである/あったという批判、告発にもなる。
(以下、12/30の追記)一方ではアレックスにルドビコ療法を施す国家権力や象牙の塔があり、他方でアレクサンダーとその仲間たちという政府とはまた別のパワーを求める勢力がある。そしてアレックスもまたパワーを求め、暴力に訴えかける。最高の権力者によるトップダウンの垂直的支配、あるいは快楽ないし権力という単一の原理による全体の統制といった『すばらしい新世界』『1984年』において典型的に見られた従来のディストピアフィクションとは異なり、バージェスの『時計じかけのオレンジ』の舞台は多数のパワーがせめぎあう場所である。そこはおそらく同時代から近未来のイギリスであって、オセアニアでも単一国でもない。バージェスと同時代の、また現代でも英国の読者は、発表当時の英国の状況を頭に起きながら、この「ディストピア」小説を読んだ、読む、ことだろう。
 バージェスは従来のディストピアフィクションのあまりに高い抽象性やあからさまな二項対立という特徴を問題視して、舞台設定を同時代のイギリスに極めて近いものにしつつ暴力を告発する。読者は見知ったものに近い街並みや人影を前にして、その世界が「ディストピア」的であると悟る。読者の頭の中で、本作はフィクションであると同時に、まさに現代の/過去の英国がディストピアにほかならないものである/あったという批判、告発にもなる。それは現実と地続きのディストピアcacotopiaである。

参考文献

茂市順子「「多相化」するディストピア ―A Clockwork Orange(1962)再考―」2008年、『明治大学教養論集』432号、pp. 77-102.

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/13120/1/kyouyoronshu_432_77.pdf

Conscription in the United Kingdom -Wikipedia

5
National Service Act 1948 - Wikipedia

Commonwealth Immigrants Act 1962 - Wikipedia


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