ユートピアについて その6

前回に引き続き、ハンス・キュンク『キリスト教は女性をどう見てきたか』の第2章をまとめていく。

前回書いたように、ハンス・キュンクが要約するキリスト教における複数のパラダイムのうち、イエス在世中のユダヤ人キリスト教的パラダイム(P1)においては、性別はもちろんのこと職業や身分、民族的出自などにかかわらない平等が志向されていた。既存の社会秩序……当然その多くの位置は男性によって占められている……とは離れた、教会における奉仕=ディアコニアの実践は、決して男性にのみその門戸を開くものではなかった。第1章末尾に引き続き、第2章第1節においても、パウロの時代に女性の預言者や使徒が福音宣教のために活動していたことが、使徒言行録やパウロ書簡を引きながら指摘されている。

「しかし、すでにコリントにおいて、女性による公的な宣教をめぐる最初の争いがはっきりと現われ、パウロすらもこれに係わり、葛藤に苦しんだ」(p. 36.)と第2節冒頭で言われる。第2節では次のことが言われる。パウロの活動期を含む原始キリスト教の時代には存続していた(ガラテヤの信徒への手紙に顕著である)男女の水平性・平等性の観念が、のちの時代において「完全にひっくり返されている」(p. 37.)ということである。コリント一、一一3(「男は女の頭、キリストは男の頭……」)に見えるように、パウロ自身もまた当時のヘレニズム的女性嫌悪やユダヤ的家父長制の影響から全く逃れるわけにはいかないとしても、彼の内にあった「葛藤」が時代が下るごとに抜け落ちていくと言われる。

「ユダヤ人とギリシア人、自由人と奴隷、男性と女性の平等の保持を制限しようとするさまざまな力が、常に働いていたのである」(p. 37.)。

その一例に関する研究としてキュンクは、カトリックの神学者・歴史学者であるアンネ・イェンゼンのものを紹介する。

第4節……イェンゼンは初期教会の四つの標準的な教会史(それぞれエウセビオス(260頃-340頃)、ソクラテス(380頃-439以降)、ソゾメノス(400頃-450頃)、テオドレトス(393頃-466頃)による)の比較によって、「女性たちが周縁化され、匿名化される明白な傾向を確かめ」(p. 45.)た。最も古いエウセビオスの教会史は、4世紀以降の三人の著者による教会史に対して、女性の教会に対する関与について多くを報告している、と言われる。自律的に禁欲生活を営む女性、女性の奉仕者、寡婦に関する記述は、エウセビオスの教会史にのみ見られ、他には欠けている。

第5節……イェンゼンはこのほかにも、女性の殉教者・預言者・神学者に関する研究を提供している。2世紀にフリギアで興ったモンタノス派について、領袖モンタノスとそれに従う二人の女性預言者プリスキラマクシミラによるとされるこの運動の名称が、二重に誤りを持つことを指摘する。この運動は、霊的指導者である二人の預言者とその「弁護人」モンタノスによる運動であり、同時にこの運動は官僚的位階秩序から離れたディアコニア的精神に基づくものだった。「モンタノス派」という名称……後代の名付けであり、当時は「新しい預言」と呼ばれた……は、その「中心人物」について誤解し、次いでその運動体の形態についても誤解している。女性神学者については、2世紀ローマの学頭フィルメネの名が挙げられる。マルキオンと競合したこの人物は、大教会とグノーシスのほぼ中間の立場を表明し、仮現説並びに世界と物質を悪と見做す二元論から距離をとる一方で、復活に関する極端な霊的理解を支持した。ただしこの人物は後代の歴史叙述において「彼女の教説を広めた弟子のアペロスの陰に隠された」(p. 48.)と言われる。

第6節……古代の女性による自律的運動。禁欲の理想に基づく「性の拒否」が、キリスト教徒となったヘレニズム的なローマ人の女性たちのあいだで広く普及した(禁欲自体は古代地中海に広く見られたが、キリスト教徒の女性たちにおいてそれは顕著であった)。多くの未婚の、また寡婦となった女性たちが伝統的な家族生活から離れて行った。「キリスト教においては、今や女性たちの大きなグループにとって、生物学的な定めということでは定まらない、もう一つの生活様式が可能となったのである」(p. 50.)。

第7節……「しかし、明らかに、このことは、集団的な現象として、しだいに教会の側で脅威と感じられるようになったと思われる」。女性による性の拒否が、「「男性的な」役割をつかみとり、それに結びついた指導の権利を要求するものとみなされた」からである(p. 51.)。教会……もっぱら男性によって占められた位階序列……は、この「脅威」に対抗するために、誘惑者としての女性という敵対的な像を作り出し、両性の分離を主張することで、「男性的な」役割である聖職者の地位とその指導の権利とから女性を締め出した。

第8節……初期のキリスト教、古代教会‐ヘレニズム的なパラダイム(P2)は次のように要約される。

位階的な構造の浸透 ……平等の原則はもっぱら私的な領域に限定され、公的な領域では男性支配が浸透する。

性の敵視 ……古代世界に共通だが、特にキリスト教において明確に現れる。

教育の軽視 ……女性に対するそれがあからさまに軽視される。このことは「女性たちをもっぱら「肉」として感覚的に捉えることに、著しく貢献した」(p. 55.)。


「ユートピア」を「計画的に設計された幾何学的都市(国家)」に限定するなら『彼岸花が咲く島』の〈島〉は明らかにそうではない。アルカイックと言えば随分乱暴としても、いたって穏やかな南洋の離島、といった印象がある。他方、鴻巣友季子による書評のタイトルでは「ユートピア」と言われている(こういうのは記事の名前は筆者ではなく掲載ページの方で決めるのかしら)。もとより曖昧な概念だから多少の変動はありうる。

『彼岸花が咲く島』もそうだが、ユートピア、ディストピア、異様な社会を内側から描く……という手法はアトウッド『侍女の物語』が何と言っても有名どころだろうとして、近作では酉島伝法『るん(笑)』が爆発的な想像力で曰く言い難い世界を丹丹と描き出していた。

2600文字も書いているので今日はここまで。

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