ユートピアについて その5

もう全然ユートピアとは関係なくなりつつあるが、最初に通し番号をこれで付けてしまったこと、来週あたりまたユートピアの話題に戻ることから、同じものを継続する。

ハンス・キュンク『キリスト教は女性をどう見てきたか 原始教会から現代まで』(矢内義顕訳、教文館、2016年)を読んでいる、と言っても冒頭の二章だけ。原始キリスト教と初期キリスト教を扱っている。キュンクは第一章で原始キリスト教(ナザレのイエスとその「十二使徒」の時代)、第二章で初期キリスト教(大雑把に言って古代末期)における女性の位置を論じている。

同時代のユダヤ人資料における女性嫌悪について

ナザレのイエスの時代、女性たちは「社会」、なかんずく「男性の社会」において重視されることはなく、また「同時代のユダヤ人の資料は、女性に対する敵意を満載し」ていると言われる(p. 19.)。具体例として名が挙げられるのはユダヤ人の歴史家ヨセフスである。注がある。Contra Apionem 2, 201(邦訳『アピオーンへの反論』秦剛平訳、山本書店、1977年)。キュンクの注に秦の邦訳より引用されている(らしい)ものをベタで書き写してしまうと、ヨセフスは次のように書いている。

律法によれば、女性は、あらゆる点で、男性に劣っている[創三16]。したがって、女性は従順にしておかなければならない。それは何も、彼女たちを侮辱するためではなく、男性の指図を素直に受けることができるようにするためである。なぜなら、そうする権威を男性は、神から与えられているからである。

ここでヨセフスが挙げている「創三16」、は何と言っているか。

神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」(新共同訳より引用)

この章句からは、女性の男性に対する劣位が引き出せるかはともかく、男性による女性の支配が出産の苦しみと同様に神によって定められたものであるという結論を引き出すことはできそうである。換言すれば、創世記第三章16節の文言は男性による女性支配を神の名の下に正当化する解釈を可能とするのだが、それはもっぱら神の名の下にのみ正当化され、男性に対する女性の(全き)劣位というヨセフスのテーゼは見出すことができない。ヨセフスは上の文章の中で、男性に対する女性の従順の根拠として、その全き劣位と男性による支配の神からの承認を挙げていたが、その片方については創世記の文言の中には根拠を見出せず、むしろそれはヘレニズム時代のヨセフスの独創に属する

引用された文章の中で、ヨセフスは結論として「したがって、女性は従順にしておかなければならない」と、男性に対する女性の従順を主張している。前後を見ると、彼は二通りの理由をここで挙げている。一つは冒頭の「律法によれば、女性は、あらゆる点で、男性に劣っている」、創世記を引いた男性に対する女性の劣位である(そしてこれがヨセフスの独創である旨を上で指摘した)。今一つは従順を主張した後の文で、「それは……男性の指図を素直に受けることができるようにするためである」と言われる。従順であるべきなのは、女性が男性の命令に反抗しないため……先に理由が二つあると書いたが、この部分はむしろ女性の従順の目的を説いている。従順であることによって、女性は男性に対して反抗無しに従うことができる。最後に「なぜなら、こうした権威を男性は、神から与えられているからである」と言われる。理由ないし目的が主旨の後ろに置かれていく。これを換言すれば、

1 男性は女性を支配する権威を神から与えられている。(根拠の提示)

2 女性は男性に素直に従うべきである。

3 したがって、女性は男性に対して従順であらなければならない。(必要とされる態度が示される)

  パラフレーズしようとしたが、やはり引用されたごく一部から何か書こうとしても限界があり、邦訳もあるのだからそちらにあたるべきだろう。

「十二使徒」について

いわゆる「十二使徒」についてキュンクは、マルコ福音書三章13-14を挙げて彼ら十二人は「使徒」と呼ばれてはいなかった、「「十二人」と「使徒」を同一視したのは、イエスより一世代以上も後の年代記作者ルカが最初である」(p. 20.)と書いているが、新共同訳では「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた」(マルコ三14)と訳されてしまっている。キュンクは続けて、「数の上では「使徒」、つまり、イエスの復活への信仰において「遣わされた者たち」が、より大きな集団であり、この集団には女性たちも属することができるのである」(ibid.)と記し、コリント人への手紙一の十五節5-7節の参照が促される。四大書簡の一つである当書簡のこの部分は、パウロらによる伝道の内容を羅列したもので、新共同訳によれば次のような文章である。

5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、

マルコ福音書の場合は少し具合が悪かったが、ここを見れば、いわゆる「十二使徒」を指すだろう「十二人」と、イエスが復活しその姿を現した「(すべての)使徒」は、まったく違う集団を指しているのは明白である。イエスが指名した「十二人」に対して、イエスがその姿を現した相手である「使徒」ははるかに大きな集団であった。「使徒とは、決して十二人ではなく、いわんや七人でもなく、最初の証人そして最初の使者とみなされる人びとすべてだった」(p. 26.)のである。

原始キリスト教の共同体の水平的性格について

キュンクの要約するところによれば、原始キリスト教の共同体は

1 いかなる支配制度も持たない自由な人々の共同体であり、

2 階級(職業・職階)や人種や性別に基づく階層性を持たない平等な共同体であり、

3 個人崇拝を伴なわない、兄弟姉妹のように対等な共同体だった。(兄弟姉妹というとき、儒教的な長幼の序は想定されていない……とはわざわざ書くまでもないだろうが、日本語で書く以上は必要な傍注であるようにも感じられる。)

という性格を持っていた。(p. 24.)

使徒言行録における女性預言者について

キュンクは第一章末尾で、新約聖書に記録された女性預言者の存在を指摘する。アガボ、ユダ、シラス、そしてフィリポの四人の娘たち、と列挙される。注で、使徒言行録二一9、一一28、二一10、一五22, 32の参照が促されている。

この人[福音宣教者フィリポ:引用者注]には預言をする四人の未婚の娘がいた。(二一9)
その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると”霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。(一一28)
幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。(二一10)
そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちのなかで指導的な立場にいた人たちである。(一五22)
ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、(一五32)

 自分が後で読み返すためにと引用してみたが、あんまり情報量が少なく、読み返すにしたって直接新共同訳を開いた方が早そうである。ともかく、こうした女性預言者や「指導的な立場にいた人たち」による行いを、他の教会の構成員による種々の行いと同様に、キュンクはディアコニア、すなわち奉仕であると位置付ける。預言や指導という行いは、何らかの組織における「役職」というような「世俗的な概念」(p. 27.)……支配の諸関係を表現している……からは断絶しており、「指導」と言っても先に挙げたような(職階等の階層性を持たない)平等性、(個人崇拝的カリスマ性から離れた)水平性の性格を持っていた。だからそれは、マルコ福音書九35、一〇43および並行記事において「六つの異なる文」で語られるように、あくまでも奉仕だった。

まだ第一章についてしか書いていないが随分文字数を書いてしまったし、別のこともしなければならないので、今日はこれで打ち止めとする。

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