ユートピアについて その33:へクスター②・『短くて恐ろしいフィルの時代』

『ユートピア』が冗談の類ではなく、同時代の流儀で真剣な社会批評を展開した作品であるということについては、同時代のモアの友人たちのあいだで既に合意があった。そして、優れた社会批評である以上、その意味は明確に読者に伝わるものであるはずだ。社会主義の先駆としての、あるいは全体主義への警鐘としての『ユートピア』という近年の解釈を遠ざけるヘクスターは、同時代の友人たちによる明確な理解をまず取り出す。
『ユートピア』のバーゼル版が出版される際、三人の人文主義者がこれについて文学的な寄稿を寄せた。フランスのギヨーム・ビュデによるパリ版印刷者のラプセットへの賀状、オランダのヒエロニムス・ブスライデンによる著者モアへの賀状、エラスムスによると推測される欄外の注記がそれである。のちに『ユートピア』のルーバン版やパリ版に掲載されたこれらの文章から、モアの同時代人が本書についてどのような見解を抱いていたかを知ることができる。
 ビュデは、ユートピア島が実現している制度を、構成員のあいだの平等、平和に対する恒常的で不屈の愛、金銭への蔑みと要約している。そうした徳に適った制度は「神的制度」、「キリスト的生活風習と真にキリスト的な英知」と称賛される。それに対して、ヨーロッパ社会は血縁同士でさえ互いに騙し合い、財産を奪い合う有様であるとして、その道徳的頽廃を憂いている。
 ブスライデンは、ユートピア島では「財産にかんするすべての争いが除かれ、だれにも自分の財産というものが与えられていない」こと、あらゆる財産は共有され、あらゆる物資や行動が「ひたすら唯一の正義と公平と共同一致の維持」といった目標に結びつけられていることで、その制度は健全で完全なものとなり、「全世紀を通じて人々の讃辞の対象となる」と記している。そこでは「野心、陰謀、ぜいたく、妬み、不正」などの原因がいっさい取り除かれ、逆にそうした原因がいたるところにあるヨーロッパでは、時として大規模な軍事行動によって「多くの幸福な国家の繁栄状態が根底から崩され」ることにもなる。
 エラスムスによるとされる注記は分散してそれぞれごく短いものだが、ヒュトロダエウスの態度について「金にたいするすばらしい軽蔑」と述べられるとともに、ぜいたく品が廃され、労働と分配が平等であるユートピア島を「聖なる国家」「キリスト教徒の真似ぶべき国家」と称している。また、ヨーロッパの諸国家がユートピア島の制度を真似ることができない理由として、モアは作中でその高慢を挙げているが、これについても注記は「すばらしい主張」であると記している。
 現代日本でもよく知られている「羊が人を食う」に象徴されるような、巨大資本による零細農民への暴威に対する批判、その反対の極としての共有制が、原始キリスト教的な含意を含ませつつ、同時代人たちによって称賛されている。この点について同時代の見解は一致している。モアの『ユートピア』は社会批判の書として、当代のヨーロッパにおける財産の不均衡を非難し、反対に理想国家ユートピア島を提示してみせているものだ、と言われる。そして、ヘクスターの次の論点にかかわることだが、その根本的な原因としては高慢、いわゆる七つの大罪のうちのひとつである傲慢が挙げられる。

 へクスターは本書の方針として、『ユートピア』が持つ社会批評としての一貫した意図を想定し、なおかつユートピア島に表現された諸要素のうちモアが最も重視したのは何か(提示される諸思想の階位制はどのようなものか)を示そうとした。先に述べておけば、モアは人間社会の悪の根源を傲慢であるとして、それを抑制するための制度と思考法を『ユートピア』で展開した、とヘクスターは結論する。
 本当は今日の更新でそこまで書き起こしてしまいたかったが時間が足りなかった。

 代わりに、備忘録としてジョージ・ソーンダーズの『短くて恐ろしいフィルの時代』について書いておく。2005年に執筆され、2011年に邦訳、2021年に文庫化された本作の文庫版を読んだ。独裁者フィルの人物造形は、訳者あとがきによれば「独裁者の最大公約数」であるらしいのだが、ショーヴィニズムを刺激する弁舌の才能や彼が失脚させる前大統領の描写、そして「内ホーナー国」人をバラバラに分解し、大半を辺境の土の下に埋めて一部を展示物にする、人物の肉体を抹消するか限界まで利用するかという扱いをする点で、どうしてもアドルフ・ヒトラーを彷彿させる。
 フィルは他の外ホーナー国民の二倍ほどの背丈のある兄弟を私兵として雇い、耄碌した大統領からその地位を奪い、「内ホーナー国」人から税金と称して衣服までも徴収し、ひとりをバラバラに分解して一部をモニュメントにして、ついには内ホーナー国人全員の抹殺を企てる。内ホーナー国人の窮状を、円周状の外ホーナー国の外周を帯状に囲う国家「大ケラー国」の住民たちが聞き知る。大ケラー国人たちは「国民生活楽しさ指数」の向上を国家の最重要目標とする享楽的な人々だが、「民族がひとつまるまる解体されようかという時に、呑気にグルメなコーヒーなどを呑んでいていいのか」という理由から外ホーナー国に侵攻する。「おとぎ話」らしく途中の一切は省かれる。大ケラー国人の身長はフィルのふたりの私兵の三倍近くある。しかしかれらとフィルの直接戦闘は起こらない。かれらが外ホーナー・内ホーナー国境に辿り着く前に、フィルは発作で死ぬ。
 ここまでの一連のあらましは読者をいっそ辟易させるほどに第二次大戦に似ている。訳者の弁を信じれば、フィルは作者ソーンダーズの見るところの「独裁者の最大公約数」であるらしいが、米国民のメンタリティにはそれほどまでに第三帝国のアドルフ・ヒトラーの姿が刻み込まれているのだろうか。
 終盤、機械仕掛けの神の介入する直前の一場面だけが、史実と異なる。解放された内ホーナー国人たちは、自分たちより数が少なくなった外ホーナー国人への復讐を、その皆殺しを目論み、これを実行する(このおとぎ話では場面に登場する人物以外の「国民」は本当に存在しないらしい)。ショアーを生き延びたヨーロッパ・ユダヤ人の中にも、流石にドイツ人の絶滅とまではいかなかったものの、六百万人のドイツ人を殺すことを目標として掲げた組織があった。アウシュヴィッツの後に正義を体現していた恐らく唯一の組織である。その報復計画は成功しなかったが、その事実もまた恐らくはこの世が最善の世界でないことを示唆している。


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