ユートピアについて その9

『すばらしい新世界』について、バーナード・マルクスを挙げて、「ハクスリーには未来世界の「良さ」に対する葛藤、屈託があるのではないか?」と書いた。あれは大きな誤解で(あれを打った時はまだ後半部を読んでいなかった)、中盤以上の主役たる野人ジョンを見ればわかるように、ハクスリーの企図は上の「屈託」とは正反対の位置にある。

ハクスリーは最初に「人間製造工場」の集団的人間製造と「工場」で働く人々のふるまいを描き、未来世界の様子や価値観を提示した。フォード紀元の未来世界は、読者にとっては全く異様な世界である。その異様な世界にバーナードという読者に近しい価値観を持った人物を置いてみせて、改めてその世界の異様さを読者に印象付けている。バーナードとレーニナが向かった北アメリカの保護区で、生きた母親の腹から生まれシェイクスピアを諳んじる「野人」ジョンの姿をみとめ、その20世紀的な価値観を見ると、読者はいっそう未来世界に対する違和感を強くする。

『すばらしい新世界』の後半部は、この「野人」ジョンがイギリスに渡って、ヘルムホルツやレーニナをはじめとする未来世界の人々とのあいだに繰り広げる葛藤やドタバタ劇がメインとなる。その中に、フォード紀元の未来世界の性質を示唆する一幕がある。第12章後半、感情工学を専門とし、言語によるプロパガンダの類の作成を手掛けるヘルムホルツは、ジョンが親しんでいる言語技術に強く惹きつけられる。「ヘルムホルツと野人はたちまち意気投合した」(p. 251.)。ジョンは故郷からシェイクスピア全集のいくらかをロンドンに持ってきており、バーナードと共に訪れたヘルムホルツの居室でこれを朗読してみせる。ヘルムホルツは朗読を聴いて、ある時は喜びに微笑み、またある時は恐怖に蒼ざめ、「昔の人」に比べれば「当代一のプロパガンダ名人もまるで形なし」(p. 254.)と高く評価する。そして次のように言う。

この作者がどうしてこんなに優秀なプロパガンダ専門家になれたのか? それは彼が、感情を刺激するような、常軌を逸したつらい経験を山ほどしてきたからだ。傷ついたり、心をかき乱されたりしないかぎり、ほんとうにすぐれた、X線のように真実を貫くフレーズは出てこない。(pp. 255-6. 強調引用者)

 シェイクスピアは、そして西暦時代の人間は、フォード紀元の人間に比べれば「常軌を逸したつらい経験を山ほどしてきた」。そしてそうした経験のために傷つき、心をかき乱されたことで、人に喜びを与え、恐怖を喚起し、真実を貫くフレーズを作り出すことができた。英語圏の最大の言語芸術家の一人であるシェイクスピアを挙げて、ハクスリーは芸術の成立条件としての苦痛を措定している。

苦痛、弱さ、無力感、不快感、苦しみ、不安……ムスタファ・モンドが語るところによれば、フォード紀元の未来世界は安定のために芸術、科学、そして宗教を社会から排除している。『すばらしい新世界』本文中では、最後に挙げられた宗教の排除について最も詳細に語られている。17章のジョンとの対話の中で、ムスタファ・モンドはメーヌ・ド・ビランを引用するのだが、ビランの加齢と宗教的感情に関する考察を要約すれば以下のようになる。加齢に伴う無力感や不快感といった一連の苦痛は、一つにはその先にある死への恐怖から、今一つには感受性や欲望の減退に伴う理性の充分な発揮から、宗教的感情を高める傾向にある。ムスタファ・モンドはこうした哲学者の「考えもつかなかった」天地として、フォード紀元の未来世界を提示する。

「これでわかっただろう。天と地のあいだにあって哲学者たちが考え憑かなかった多くのことのひとつは」(片手を振って)「われわれだよ。現代のこの世界。[中略]いまのわれわれは、若くて元気な時期を人生の終わりまで持続できる。その論理的帰結は明らかだ。われわれは、神から独立していられるんだよ。」(pp. 323-4. 強調引用者)

フォード紀元の未来世界の人間は、神から即ち宗教から独立していられる。

……そもそもわれわれは、なにひとつ失わない。だから、宗教的感情など余計だ。若いころの欲望がいつまでも衰えないのに、なぜそのかわりを求める必要がある? 死ぬまで莫迦騒ぎが楽しめるのに、なぜ娯楽のかわりが要る? 心も体も最後までずっと楽しく活動していられるのに、なぜ安らぎを求める? ソーマがあるというのに、なぜなぐさめが必要なのか? 社会秩序が確立しているのに、なぜよりどころが必要なのか?(p. 324.)

そもそも必要をもたらす契機が存在しないのだから、宗教的感情は必要ない。老いは克服され、60歳まで若々しい肉体で生きた後は、穏やかに臨終の床に就くのがフォード紀元の未来世界の住人達である。そして老いのみならず、あらゆる苦痛――ほんとうに優れたフレーズを生み出すために必要な、常軌を逸したつらい経験――は、副腎への刺激として用いられる代替激情療法によるそれを除いて、やはり完全に排除されている。フォード紀元の未来世界は、信仰も芸術も捨て去り、性道徳すらもかなぐり捨てたような、ひたすら快楽主義的な世界である。しかしその世界は同時に、道徳や信仰や芸術を必要とさせるような苦痛や不幸や悪徳を克服したすばらしい新世界でもある。

ハクスリーが描いたのはこの「すばらしい新世界」に対する屈託であると前に書いた。しかし実際はむしろ正反対である。ハクスリーは、バーナードやジョンといった読者にごく近しい価値観の人物を配置して、彼らの反応を通じて入念に未来世界に対する反感を読者に与える。しかしながら、そのような常軌を逸した異様な世界が、宗教、芸術、尊厳といった近代的価値観と真っ向から対立しつつも、住民の幸福を実現した社会であることも雄弁に物語る。発狂した世界としか見えないものが、同時に否定しがたく素晴らしいものでもある。老いのない社会、苦痛のない社会、それは確かに人類が求めてやまなかった理想社会のありようではないのか? そして実現した理想社会は、それがわれわれの目から見てどれほど異様なものであろうと、やはり優れたものであるのではないのか?

追記:とはいえハクスリーは本当に完全な社会としてフォード紀元を描いているわけでもない。バーナード・マルクスが良い例だが、彼以外にも、ヒューマンエラーとその悪影響を排除できていないという未来世界の脆弱性が描かれている。第13章冒頭、人間製造工場で働くレーニナは、一人の胎児に眠り病の予防注射を打ち忘れてしまう。語り手は「その二十二年八カ月四日後、タンザニアのムワンザ州ムワンザで働く前途有望なアルファマイナスの行政官が――半世紀ぶりに――アフリカ睡眠病にかかって死ぬことになる」(p. 258.)と言うが、どうやらここでのレーニナのミスは二十二年にわたって発見されることもなく放置されていたようだし、しかも似通ったミスが二十二年後から数えて半世紀前にも起こっているらしい。フォード紀元の為政者たちは、リスクマネジメントの観点には随分無頓着なようだ。

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