ユートピアについて その18

 シオランは『歴史とユートピア』第五章「ユートピアの構造」の中でユートピアについてその思弁的規定を与えている。第六章でエデンや黄金時代と関係付けられていたユートピアの前二者との違いは、それらを生み出すノスタルジア、郷愁が持つ性格の違いに由来する。

 聖ヨハネ・クリュソストモスによれば、五千年この方閉じられていた楽園が、キリストが息を引きとった刹那ふたたび開かれたという。……
 あらゆる点から見て、楽園はふたたび厳重に閉ざされたとおぼしく、今後なお久しく開かれることはあるまいと思われる。……私たちの夢見るのはこの楽園であり、私たちが溶けこんでしまいたいと希うのもこの楽園である。

 この楽園、かつて一度開かれ、今やふたたび閉ざされた楽園への郷愁こそ、黄金時代、エデン、ユートピアを生み出す共通の源泉であるとシオランは主張する。この郷愁は一般に、「時間的にどんな時代とも符合することができぬ」という「形而上学的意味」を持つ。この郷愁は、まずエデンや黄金時代といった、過去、人間や世界の原初の時代には実現しており、今は失われた理想を想像する。なぜなら、原初の過去を除く全ての時間、現代にまで連なる諸々の時代には、人間は、また世界はかつて持っていた無垢や完全性を失っており、偸盗、殺人、姦淫をはじめとする悪が蔓延しているからである。このような時代に連なって生起する未来に理想的な世界がありうるとは、ギリシア人もユダヤ人も考えはしなかった。

かくてこのノスタルジアは、はるかな、人間の時間を拒否する、生成に先立つほどの遠い過去に慰めを求めようとする。原初にまでさかのぼる、ある種の決裂の結果たる悪――現にこのノスタルジアを傷つけ苦しめている悪が、黄金時代を未来の一点には決して設定させまいとするのである。

 シオランは、黄金時代やエデンといった過去に存在し現在は失われた理想社会像を、「この郷愁が自然に思いつく」ものであると規定している。
 対してユートピア、すなわち「地上楽園」を生み出す郷愁は「逆方向の、歪められ汚された郷愁」である。それは「未来へと向け変えられ、時間の複製でもあり原初の楽園の妙ちきりんな変身でもある、あの「進歩」によって鈍磨されたノスタルジアなのである」。このユートピア、未来に実現される理想社会という考えは、シオランによればルネサンスから二世紀後、「「啓蒙的」迷信の時代」に成立した。地理上の発見が尽されたこの時代には同時代に実在する理想社会という想像力が失効するのと同時に、過去に対する現在および未来の優位という構想、未来に対する楽観主義が共有されたために、理想社会は過去よりもむしろ未来に実現するだろうと想像された。
 古代人が抱いた現在および未来の悪と過去の無垢の対立は、ここにはない。過去よりも現在はより良く、現在よりも未来はより良いと想像される。未来、ひいては「進歩」への確たる信頼が、現在から連なる未来における理想社会の成就を構想させる。過去よりも現在はより良くなっており、未来は現在よりもより良くなるだろう。そして未来における現在よりも、未来における未来はより良くなるだろう。これを繰り返せば、いつか未来のどこかで、全く悪を欠いた理想的な社会が完成するのではないか――未来に成立するユートピアは、おおむねこのような類推によって構想される。
 ところで、ユートピアは未来にあると同時に「時間的にどんな時代とも符合することができぬ」、どんな時間からも隔絶した性格を持つ(少なくともシオランはそう主張する)。ユートピアが成立する「未来」とは、次のようなものになる。

進んでそうするにせよ、強いられてのことにせよ、私たちはみな未来にかけていて、未来を一個の万能薬とし、また、時間内部でのまったく別の時間の生起と同一視し、涸れることもなく、しかも完結した持続のごときもの、ひとつの超時間的歴史のごときものと、これをみなすのである。そんなものはこちばの矛盾なのだが、新しき治世を、生成のただなかにおける溶解せざるものの勝利を待ち望む心には、これがつきものなのである。よりよき世界を夢見る私たちの夢想は、理論的不可能性を土台としている。そうした夢想を正当化するために、確固たるパラドックスを駆使せねばならぬとしても、どうして驚くことがあろうか。

 未来は現在よりもより良くなっていく。とはいえ、現在に存在する悪のすべてを消滅させることなど、果たしてできるだろうか? それは樽の中のワインを水で薄めていくのではなく、樽の中身を水と入れ替えるような、異なる手続きを必要とするのではないだろうか?
 いっぱんに時間とは過去から未来までひとつづきであると考えられており、その一つの時間のなかで物体は運動(変化、摩耗、生成、消滅)する。時間内部でのまったく別の時という発想は、機会原因論など超自然的な行為者の介入を前提とする議論においてはともかく、世俗的、自然科学的発想に慣れ親しんだ者にとっては不合理であり、「飛びながら止まっている矢」のようなパラドックスに属する。
 古代人と同じく歴史における、また人間における悪の確固たる実在を是認するシオランは、時間の経過によってたとい悪が薄まろうとも(じっさいにはシオランはそれすら認めないのだが)悪の消滅がありうるとは考えていない。進歩という近代的ユートピアの思考法を是認するとしても、進歩によって悪を欠いた理想社会が実現するとは認めない。理想社会を実現しうる未来とは、過去や現在から隔絶した、時間の中に突如現れた別の無垢な時間である。そしてそれは明らかな矛盾、不可能である。そしてまた、ユートピアが理想の実現として想像されるなら、realization of idea or something idealとは、単なる事物の生成か、高次の実在の低次のそれへの失墜であり、「悪魔と接触することによって光から遠ざかり、原初の至福への愛想から逃げ出すこと」であるのだろう。

 ここでシオランが語るユートピアは、時間ではなく空間によって隔てられたルネサンス的ユートピアよりも、19世紀に空想的社会主義者の名で呼ばれた近代的ユートピアに近い。同じユートピアの名で呼ばれるものの住民としてモア、カンパネッラ、フーリエの三つの理想都市の住民が挙げられており、この区別はあまり判然としないが、以上のユートピアの規定の中でその将来的な成就が語られている以上、彼が語るユートピアは初めてその名で呼ばれた国家をいちおうは含みつつも、ロシアのコミュニズム国家を含む後続の「ユートピア」をその論議の中核的な内容としていると言える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?