解放のあとで 二週目 α

2020年6月15日

 先週分の燕氏の書簡はいい巻頭でした。いい発破でした。一週間が経ちます。合衆国の一部では何やら自治区なるものが形成されたり、ラッパーが「将軍general」になったならないだの流言が飛んでいます。東京都はアラートもへったくれもない自粛なるもののゆるめを宣言して、さあ防疫戦は終わった今度は選挙戦だと忙しくしています。いくら病原体が荒れ狂っても選挙日程は迫って来るようです。山本太郎が出るの出ないののすったもんだがこちらでも吹き荒れていますが、多摩川の川向かいから、太平洋の対岸から、大荒れを眺めやっています。古谷みのりです。
 私が住んでいるのは神奈川県は北東の端・川崎市の中ほどにあるシケた住宅街ですが、住宅街というのは基本的に変化に乏しいものです。年単位で見ても、地元密着の商店街の店舗が次第に減っていくくらいで、時たま道路工事が入り、水道管なりを交換してまた埋め戻して去る。街道沿いの土地にはときおり新しく集合住宅が建ち、これらの建設具合で時の流れが多少とも思われる面もある。しかし住宅街、住宅街と呼ばれるような地帯、街道を離れて何番地何番地が細い路地を挟んで密集している地帯についてみれば、これはそうそう景色も変わるものではない。ヨーロッパの石造りの旧市街ほどには堅固でないにしても、このプレハブもどきの風景にもそれなりの耐久性はあり、その中で暮らす人々の生もそれなりに変化せずにあるものではないか、とも思われます。
 だから変わっているのは風景ではなく、風景とはかかわりない技術なのだと言えるでしょう。2010年代を総括するとして、その時代に最も力を持ったテクノロジーは、ソーシャル・ネットワーキング・サービスをはじめとする情報通信技術であったように思われます。チュニジアで起きたいち青年による焼身自殺事件に端を発した「ジャスミン革命」及びそこから発火した「アラブの春」と呼ばれる一連の革命運動が、地中海沿岸の諸国においてあるいは独裁政権を打倒し、あるいは合議的手続を整備する契機を獲得し、あるいは苦々しくも現在まで続く武力的動乱(武力的という言葉は使えるものだろうか、暴力的といったほうが通りは良いのではないか)の火蓋を切るかたちとなり、様々な政治的変革をもたらしたことは燕氏をはじめとする皆さんも記憶されていることでしょう。
 また2016年には海を隔ててアメリカ合衆国における大統領選挙がありました、当選すれば初の女性大統領となるヒラリー・クリントン候補に対し、ホワイトハウスの権威の打倒を訴え型破りな言動をみせるドナルド・トランプ候補という異色の一騎打ちの背後でも、反対党に対する誹謗中傷を含めたSNSにおける電子戦電脳戦がやはり激しく火を噴いておりました。MeToo運動も、これは2000年代から開始されていたそうですが、日本の衆目にもよくよくふれるようになったのはやはり2010年代に入ってからのことで、著名な映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが2017年に告発されたことが大きいのではないか(生憎と私はこのプロデューサーの名前や制作した作品を知らないのですが……)。
 そういうわけだから、とりわけこの十年、ある程度以上平和な社会の中で、銃火以上に力を持っていたのは情報通信技術なのだと、素人ながら診断したところで、全く的を外しているわけでもないでしょう。新型コロナウイルスによる感染症の猛威はいよいよ世界的な色を見せており、ひどいパンデミックの発生したアメリカに次いでブラジルが感染者・死者の第二位の位置をとらんとしている模様です。最初に集団的な感染が確認された中国でも、また韓国や日本でも、かくも人死にが多く出ているわけではありません。特定の地域に特異な変種であり、弱毒性の類縁種に感染することで東アジアの人々が免疫を得ていた(つまり裏を返せばアメリカ大陸の人々には免疫のない病原体であった)のか、感染拡大の様態の差異に関する詳細な調査が待たれるところですが、とかく痛ましいことです。こうした状況下でも我々はキーボードを叩き、画面の前に律義に腰かけて、何やら話しながら、情報を送ったり送らなかったりしつつ、通信販売という便利な業態を利用しもしている。この一連のおこないは、皆20世紀に開発され発展した情報技術を基盤としてこそ成立しているものであって、こういう事態になって2020年代における医療技術への投資の増加を見込む筋もあるそうですが、われわれの環世界をかくも激変せしめた情報通信技術が、われわれにとってやはり大きな大きな影響力をこれまで持ち、これからも持ち続けることは、あえて想像しようとも思われないようなことでもありましょう。


 何の話をしているんだ? そう、新型コロナウイルス感染症に伴う緊急事態宣言発出状態からのさしあたりの解放についてだ。
 国内のことに話を絞りましょう。


 思想としてのコロナウイルスだの、ビオポリティークの進展がどうのと、良い議論ですね、と言うことはできる。しかしこの、マラルメやジャリ、ボードレールが19世紀後半のせせこましいジャーナリズムに対して満腔の怒気いやさ唾棄をかましていた時代の高尚さ、これを多少なりとも引き継ぎ、新しい知のありかたを追求してきた20世紀後半の「現代思想」、その後継者ないし伝達者の位置にある多くの「思想家」が、さあ次の餌だと、そろいもそろって、山を鳴らして、天井まで本を積む勢いで何やら書き走り、刷り走りやっている。
 勿論、詩や文学とジャーナリズムの「共犯関係」は百余年前にも判然とありました。あったことでしょう。少なからず。思想とジャーナリズムの「共犯関係」もあるでしょう。少なからず。「共犯関係」なんていかにも好まれそうな言葉ですが、今そんなことはどうでもいい。結局のところ、学知の成果が「意匠」としてのみ消費されるという……東浩紀が90年代に既に指摘して久しい……アカデミズムにおける・ないしアカデミズム的な批評・世評のありさまは、個々の批評家がそれのディシプリンに則って物を語るところの各々の学すらも毀損するのではないか。吉本隆明は、当時も隆盛していたフランス思想の紹介者を知的密輸入者と揶揄していたのだったか、そんな話を酒の席で耳にしたこともありますが、苟も形而上学者の後裔であるならば、自然学の後に足を踏み入れるべきではないのかと、妄りに語ることは、そこで用いられる概念の誤解をむしろ招くのではないかとも私には思われます。
 しかし、これは自分で書いていてふと思いついたことですが、あるいは「速さの知」が、無数のサイコロを振り続ける、当たるも八卦当たらぬも八卦とサイコロを振り続ける、無数の出目の、そのつどの多様性を知としてとらえる、「速さの知」、「出目の知」、それがジル・ドゥルーズ以降の「新しい知」だと言われれば、サイコロの出目の速度でジャーナリズムに乗る(この乗るというのは誤変換ではありません)知と言われれば、肯くことのできないものでもないのか。自分よりドゥルーズや『資本主義と分裂症』に詳しい人はいくらでもいるでしょうからその方に解説は任せます。
 最近読んだ本という線で書くと、中公新書新刊より渡辺靖『白人ナショナリズム』を読みまして、古き良き白人文化の防衛ということでハイブロウのヨーロッパ人を取り込む運動も盛んになっているそうです。防衛する白人文化なら欧州に十分あるんだからそれでよかろう、とは外部から見ると思われますが、そうも言っていられない、らしい。類書としては『暗黒の啓蒙書』も邦訳が先日発売されました。未読ですが、自分には加速主義も随分息苦しく感じられる。出来ることならもう少し遅く、ゆったりと生きたいのですが。


 駄目ですね、何か話そうとしたところで国内の文書をろくに読んでいないことがこうやって露呈するわけですが、一つくらいまともに応答しておかなければなりますまい。シスヘテロ男性の「普通の日本人」であることについて、ちょっとばかり持論を書かせていただきましょう。
 差別的な行いや制度が、もっぱら顕性的な悪意によって運用されている場合、その悪意を叩けばいいわけですから勘所は明快です。悪意を持っている各々の個人心理に何らか修正を加えればいいのですから、簡単です。
 問題は差別的な或物が、無意識、我々の重要な発見ですね、の次元に入り込んでいる場合や、社会構造がそう組み上がってしまっているとか、とにかく個人心理の範疇を超えて差別が発生している場合です。今度黒人男性を強いて拘束し死亡させたとして免職された警官がいましたが、あの問題は、問題を起こした警官一人辞めさせれば解決するとか、そういう問題では全くないわけです。当然ながら。もっと大きな規模で構造を変革する必要が出てくる。その構造変革の担い手は、大雑把に言って社会のマジョリティであり、「男社会」であり、「普通の日本人」です。社会のマジョリティがマイノリティにとって抑圧的な構造を変革し、同時に自らの意識も変革していくことが必要になってくる。これも当然のことで、納得されるでしょう。
 しかしこうした構造改革の主体であり、同時に対象であるのは、厳密に言えば、その社会を構成するすべての人間なのです。当然のことですが、マイノリティが社会を構成する要素でないとしたら、こうした構造変革の訴えは社会の中に発生してこなかったでしょう。そしてマイノリティが社会の構成要素であるならば、社会全体の構造変革に、かれらもまた巻き込まれないはずがない。かれらもまた社会の一部なのですから、変化しないはずがない。何らか変化を要求されるのです、それがどんなものであれ。
 マジョリティであれマイノリティであれ、人間すべて、社会の構造変革には「巻き込まれる」……変化を蒙る。われわれが言いうる第一のことはそれです。
 第二のこと……差別とはそれを認識できない者には逆立ちしてもどうしようのないものであるということ。
 ドイツの現象学者エトムント・フッサールが事物を一挙に認識することの不可能を論じる際に、写映という概念を用いるのですが、これは事物の認識に対する与えられ方を意味します。同じ木でも角度によって見え方が違うでしょう、そのときの個々の見え方が射映です。今きわめて乱暴に言えば、われわれが生きている世界の射映も、マジョリティとマイノリティで異なっていて、マイノリティによって認識される差別的な或物のひしめく世界を、マジョリティは決して認識できないと言うことができるでしょう。立っている場所が違う、肉体が違う、思考する物である肉体の性質が違う、とにかく共感なんていう生温い認識能力では太刀打ちできない断絶がここにあることは理解されるはずです。すると、共感などしても仕方のないことがわかってくる。どうしようもないというのは、どうやっても認識できないということになります。
 だから、差別と戦う者にとっては、あるいは差別者であるというわれわれにとっても、敵は、敵があるとしたら、それはもはや無意識や構造であり、個人の意識的な云々なんてものが持つ力は、構造に比べればはるかに小さいのです。

 差別的な状況が生存権すら侵害しうる例が存在し、そのような迫害の当事者にとって死活問題である差別に反対することには留保はありようもない。差別問題が死活に掛からない「普通の日本人」だからこそできることがこうした吟味であるとしても、それは普遍的な事では決してないとも同時に言いうる。留保する余裕のあるシスヘテロ男性の「普通の日本人」には、理念上、留保する余裕のない別様の人々の分までしっかりと状況を吟味し、その過程を公開する義務があるとさえいえる。
 本当はすべての人がいろいろなことを考える余裕を持てる社会が理想なんです。然るに、その余裕の持てない人間が多くいる、らしい。その余裕のなさは「普通の日本人」には認識できない。余裕がないと主張する人間の声をさしあたり信用するしかありません。この善意が、もし社会に悪があるなら、その構造からこれを変革するための第一のステップであり、考える余裕のある人間を一人でも増やすための第一歩なのでしょう。「考えろ!」ではどこぞの不条理演劇の劣悪なパロディになってしまいますが……。

 ひとまず以上として、こんなことで果たしていいのか、次の方へ回させてもらいます。

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