ユートピアについて その23

 後日メルキド出版『前衛アンソロジー3 SFの最遠点』に寄稿するディストピア・フィクション論のための草稿の一部を投稿する。

 以下、前置き――20世紀に花開いた逆ユートピア小説は21世紀現在も多く書き継がれ、多様な問題意識を掲げた作品が出版されている。空木春宵『感応グラン=ギニョル』と川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』の2作品集はいずれもフェミニスト・フィクションと名付けて齟齬のないものであり、同時に前者は「徒花物語」という作品タイトルと女学校という舞台設定によって、後者は表題作の章題における植物名の起用と「卒業の終わり」の舞台設定によって、吉屋信子『花物語』への自覚的なオマージュを捧げている。以下では特に川野「卒業の終わり」を参照して、かのじょの描くディストピア・フィクションの性質等を論じていく。

要約、反応、仮説Verfassung, Reaktion, Hypothese

 川野芽生による作品集『無垢なる花たちのためのユートピア』の掉尾を飾る「卒業の終わり」は、超時間的なモチーフを組み合わせたミソジニーの体制と、それに拮抗しようとするソロリティの蜂起の端緒を描いている。

 大きく前半部と後半部に分かれる本作は、前半部では壁に囲われた女学校での日々、後半部では女学校を卒業した後の外界での生活を叙述する。

 外界から隔絶された女生徒たちは、卒業と同時に各々が壁の外の企業へ就職していき、学校へ戻ってくることはできない。教師になることもできるが、そちらは逆に外へ出ることが決してできない。奇妙に排他的な女ばかりの箱庭を出た主人公は、外界に広がる残酷な不正を目の当たりにする。

 壁の外には女だけを殺す致死的な病が蔓延している。18歳で学校を出た者は、感染後25歳までには発症し、全身から血を流して死に至る。男、人間の約半分には何ら影響のないこの病の治療法は未だ発見されておらず、研究も進んでいない。各国政府は対症療法を選択した、即ち女を外界から完全に隔離した状態で妊孕性を成熟させるまで養育、然る後に外界へ出して男と番わせ、寿命までの5年前後の間に可能なかぎり妊娠・出産させることで種としての存続を図るという方法である。人間の約半分、女に対する、非人間化と呼びうるほどの徹底した管理が行われているのが、主人公らの住む世界なのだった。

 壁の中の学校には壮年や老年の女性もいたが、外界にはまるでいない。それどころか主人公の職場をはじめ外界の女性の年齢層は22歳かそこらが上限で、あとはみな既に結婚・「寿退社」しているか、さもなくば死んでいるかである。暗黙裡にいち早く結婚・妊娠することが求められており、主人公にも同期の男が言い寄ってくる。男が言うに曰く、女学校では生徒は成績順に採用されると語られていたが、さにあらず、査定項目はただ見目の麗しさであり、対して男衆の方は学業の成績に則り就職先が割り振られ、見目麗しい女子にありつくという由。他の女学校では良妻賢母教育が行われているところ、主人公の母校だけは独自のカリキュラムによる独立自尊の教育を死守しているとも。

(『ねむらない樹 vol.7』のインタビューにて、高校での環境に比べた東京大学のフラタニティぶりに衝撃を受けたという旨が語られている。上に引用した主人公と同期の男との問答も、あるいは著者の実体験が書き写されているかもしれない。)

 ともあれ本作は上のごときディストピア・フィクションである。

 このディストピアの鍵となる要素は何と言っても女のみを殺す奇病だが、これが設定した25歳という寿命は、筆者に否が応でも《クリスマスケーキ理論》、「女はクリスマスケーキ、24歳までが華、25歳は当落線、26以降は売れ残り」という1980年代の俗諺を連想させる。平均初婚年齢が男女とも30歳を越えた2023年現在ではまるで実態にそぐわずばかばかしいこうした俗諺が、陰惨な架空世界の根幹をなす要素として組み込まれていることに、いち読者としては場違いな笑いを禁じえない。なぜ作者はこのような場違いな笑いを誘う年齢設定を選んだのだろう? また、これは筆者の読み方の問題だが、筆者は本作を、21世紀現在を描いたものとして読んでいた。そのために、数十年前の俗諺めいた設定があまりに場違いに見え、笑った。

 婦人病の治療や研究、及びそれらに関する政策決定が優位に遅いという問題は、人口に膾炙しているものとしては低用量ピルの認可が挙げられるだろう。一般に避妊薬と言われるが薬効は排卵抑制すなわち内臓器への化学的干渉であり、より多量の摂取による月経困難症や卵巣機能不全などの治療が避妊薬としての認可以前から行われていた(中用量ピル)。然るに低用量ピルは専ら妊娠の回避を目的とし風紀の紊乱を招くとして強烈な反対に直面した。1999年にようやく認可されたが、広く経口避妊薬一般の認可への議論自体は1960年代から始まっていたという。脚がけ三十余年の達成であった。

 逆に男性の身体組織にのみかかわる判断の拙速ぶりについては、ちょうどこの低用量ピルの承認直前、98年7月にバイアグラの認可が申請され、99年1月に通過したことに明らかに見える。

 このスピード認可が運動にいっそうの力を与えたことも、同年のピル認可の一因とみえるが、ともかく(ほぼ)男のみによる意思決定、それに起因する女の意思決定の機会や権利の排斥といった偏りは歴然と存在する。

 以上見てきたように「卒業の終わり」のディストピアは、1980年代の俗諺と、1960年代以来の議論に見えるごとき女の身体に対する法的政治的支配、1992年生まれの著者の十余年前の実体験とが、あたかも無時間的に、各々の時代の差異を無視して、混淆されたかのような姿を提示する。そこに何か居心地の悪さがある。1960年代から2020年代まで、個々の時代ごとの状況の差異を無視して、ばらばらなミソジニーをかき集めてひとつにまとめたような、不格好な混淆物のように見える。陰惨なだけに笑いが漏れるのは惜しく、足許の定まらない叙述はそこかしこで読者を白けさせはしないか。いや、筆者がいささか白けたというだけのこと。

 白ける白けないは別にして、「後半部に至って、突如として異様な混淆物が出現する」という判断がどこまで正当かもまた問われなければならない。次のような仮説を立てることもできる――本作はもとよりソロリティと女性憎蔑の無時間的アマルガムだったのであり、前半部からしてそれは知れる。

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