ユートピアについて その32:J・H・へクスターの『モアの「ユートピア」 ―ある思想の伝記―』①

 原書は1952年、翻訳は1981年に出版された、アメリカの歴史学者J・H・へクスターによるトマス・モアの『ユートピア』を論じた著書は、訳者の菊池理夫によれば『ユートピア』研究に関するモノグラフの中ではカウツキーの『トマス・モアとユートピア』に次ぐ二番目の邦訳であるらしい。1977-78年はモアの生誕500年にあたり内外でモア研究が相次いで出版された模様で、本書の翻訳は77-78年の「モア研究・ルネサンス」に遅れてやってきた今一つの成果であるといえる。
 訳者の菊池は本書のへクスターの論議とは異なる方法論で『ユートピア』とその国家を検討した(こちらの内容については「その31」に書いた)。ここでのへクスターの基本的な立場は、モアの『ユートピア』を社会批評・批判の書として読むこと、社会批判としてあるべき明晰判明に理解されるテーゼを取り出すこと、同時に本書に含まれる複数の思想や概念をモアがそうしただろうとおりに順位付けること、その目的のためにモアの文学上の工夫をそこで述べられる思想から分離して後者をより厳密に調べること、の四点にある。
 へクスターが第一に問題にするのは、『ユートピア』が社会批評の書であるという現代まで続く広範な合意にもかかわらず、その批評が意図するところについて現代の識者が合意を得られていない点である。1952年のへクスターは、近代社会主義のヴィジョンという社会主義者の見解と、社会主義を非難する教会回勅の先駆というカトリックの学者の見解を挙げている(本書p. 41. )。このような読解の分裂は、『ユートピア』がその意図について曖昧な社会批評であることから生じるのか。しかし、少なくとも本書出版当時のヒューマニストらが本書の意図について一致した見解を見せていたことを挙げて、へクスターはその仮定(『ユートピア』曖昧説)を否定する。『ユートピア』は曖昧さ無しに書かれた社会批評の書であり、その意図が明確に伝わったからこそ、四世紀に渡って優れた社会批評として好評を勝ちえてきた。
 問題があるのはむしろ現代の識者の方であり、現代の読者であっても本書の意図について一致した見解を得ることができるはずだ(四百年前のヒューマニストたちがそうしたように)、そして本書はそのように書かれているはずだ、とへクスターは見る。少なくとも、同じ著書から正反対の見解が導き出せるというのは信じがたい。へクスターは上に挙げたような識者について「自分自身の好みに最もかなう諸思想を引き出し、それらを他の思想よりも高めることによって、研究者自身の好みとみごとにも一致した概念の階位制をモアに帰する」と論難している。恣意的な階位制に代わって、モアが考え、ヒューマニストらが読み取ったような階位制を検討する必要がある。そして、その考えはあたかも冗談のような数々の言葉遊びにもかかわらず同時代のヒューマニストらによく理解されていたのだから、一連の言葉遊び、文飾や工夫を離れて、その考えられた思想を取り出さなければならない。

本当はもっと網羅的にまとめて更新したかったけれど今回はここまで。次回はこうした態度のへクスターがどのような「思想」を『ユートピア』に見たのかを書いていく。


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