解放のあとで 十五通目 β

2020年9月23日

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 いいかげんどっちがどっちだか面倒になってきました。結局この宛名は、自分がそれをうけとった手紙の書き手の名前を書けばいいのか、自分がこれから手紙をさしむける先の書き手の名前を書けばいいのか、どちらなんでしょう? 後の人の名前か、前の人の名前か? 形式について予めはっきりと決めておかないから、というか私がちゃんと確認しないからわからなくなるのですが、しかしそれにしたって今回のこの形式が一つの難儀を生んではいやしないかとも思われてたまらない。
 宛名は通例出す人に向けて書かれます、宛先というのは何しろその手紙が向かう先のことで、手紙がその向かう先にたどり着くのは手紙が送られた時点よりも後の時点になる。これは必然的にそうなる。がこうして今から書くもののなかで主題にするのはもっぱら一つ前の人の書いたものになる。文章が書かれるとき参照されるのは、それを書く時点よりも前にあったものになる、この場合は今こうして書く書簡よりも前に書かれた書簡を参照することになる。これは必然的にそうなる。
 どちらも……当たり前のことでしょう。事実そうなのですから。
 一つ前と一つ後、往復書簡ならこれが一致するので、というか手紙は通例そういう形式をとるので(とりませんか?)、こんなことをわざわざ考えなくていい。が今こうしてチェーンメールのようなことをしているとその前後、先後といっても同じことだが、とにかくこの前後の通例が崩れることは確かなように思われる。二人で手紙を送りあうなら簡単だ。これ以上なく楽でいい。一人で壁打ちするにしても同じことかもしれない。しかし手紙を交わし合う人数が三人以上になる、自分への手紙の送り主と、自分からの手紙の送り先が分離するや否や、その分裂をいかに処理するかという困難が襲いかかってくる、ように思われる。思われませんか?


 現代フランスの哲学者カンタン・メイヤスーは、その著書『有限性の後で  偶然性の必然性についての試論Apres la finitude. Essai sur la necessite de la contingence』およびその他の論考の中で、自然法則(ex. E=mc2)それ自体の変容の可能性について論じています。
 沙羅双樹の花は、その色は盛者必衰の理もあらわにうつろっていく。花の色も人の権勢もうつろう。しかし当の理、「盛者必衰」は不変である。うつろうものの背後には不変の法則があり、それを解明することが学知の発展であると、たとえば宇宙の発生や量子に関する議論では、議論でさえも、思われている。人間が作り出す科学scienceの側については、なるほど恒星を渡るテセウスの舟よろしく不断に一部一部を修繕されて進んでいくのだろうが、科学が対象とする自然、を支配する法則、は永劫変わらぬものだ、という了解が前提されている。理の姿はわからない、しかし解明可能なありさまでなんらか存在しており、それを隠している事物のベールを剥がしていく一連の作業が理学、科学なのだと了解されている。(最近は「実在」ではなく「情報」を基礎的単位とする物理学も出現しているそうですがちょっと手に余る。)事物はうつろっても、また人間の自然認識は変化しても、事物を支配する法則は過去にも未来にも変わりえない。
 メイヤスーがくさびを打ち込むのはこの前提に対してです。千葉雅也による手頃な要約があるのでそちらを引用してしまいましょう。現時点でのメイヤスーの主著『有限性の後で』で展開される彼のテーゼは、「この世界(事物の総体)が現にこのような世界であること、すなわち、このような自然法則で成り立っていることには必然的な理由がない」、「それは単に偶然的な「事実」[中略]であるからには、いつの日か、何の理由もなく偶然的に、この世界は別様の(法則系を持つ)世界へと変化することもありうる」(ともにp. 8. 千葉雅也「序文 メイヤスーの方法」、『亡霊のジレンマ』、2018年、青土社)というものです。
 『有限性の後で』、「潜勢力と潜在性」(『亡霊のジレンマ』所収)などの中で展開される議論のすべてをこの短い書簡の中で紹介することはできませんが(注1)、デカルト以降の欧州哲学史の鳥瞰的知見を元にしたその論証について、中核的だろうと思われる部分をとりだして乱暴に記せば、以下のようになります。

1 必然的存在者すなわち絶対者が存在しえないことは必然である。
2 必然的存在者が存在しえない以上あらゆる存在者は偶然的である。
3 存在者の偶然性だけが必然的である。
4 1~3は事物について言われるが、法則においても妥当する。(注2)
5 事物の変化、また事物を支配する法則の変化は、可能である。

 私見ではメイヤスーは、とくに『有限性の後で』のなかで、きわめて強固な懐疑主義を大変にエキサイティングなかたちで展開・拡張することで、未踏の境地へとわれわれを案内しているのですが、懐疑論を信仰主義的ピュロン主義へと墜落させる現代の蒙昧主義、を袈裟斬りにするかのようなメイヤスーの行論、はしかし単純な絶対者の否定、つまりいわゆる「宗教」批判の方に傾くかといえば、そうでもない。メイヤスーが現在準備している、博士論文を基にした試論の内容について千葉雅也が書いているところによれば、そこでメイヤスーは「いまだ存在しない「神」がついに出現することで[真の正義の実現=不幸にして死を強いられたあらゆる人々の復活は…筆者注]果たされる」「まったくの偶然によって突然発生するかもしれない[中略]神が、全人類を復活させる」という議論を引き出そうと試みているらしい。
 メイヤスーによる「偶然性の必然性」の議論は、偶然性の必然性という「打ち出の小槌」が振られたとき、あるいは「魔法のランプ」が擦られたとき、何を飛び出させるかを予め決定するものではありません。上の議論にしたところで、メイヤスー自身が導き出した前段から後段へ何か問題ある飛躍が生じているわけではありますまい。そして自分がなにかと神なるものと信仰とを蔑するのも、ひとつには自ら認めざるをえない無神論という一個の信仰主義の所産であり、ひとつにはあるいは平均的日本人に共通の無関心であるのでしょう。1958年発行の岩波新書『日本の仏教』のなかで渡辺照宏は「外観や形式を学ぶ点では、日本人は異常の才能を示した」と言いつつ、アジア太平洋戦争中の証言を引きながら「宗教的なもの、荘厳なものに無関心でいられる」、「宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握するという態度」があるとも書いています。異様に道元をもちあげ日蓮を貶している新書で面白いんですが、またメイヤスー哲学史や「事実性」「事実論性」の峻別、「事実論性の原理」の行論まわりの書きぶりも中々面白いんですが、いい加減書きすぎになってきたのでこのあたりで落とします。また稿を改めてメイヤスーについては書くことになるでしょう。

 こうして身内向きで回覧されているというていのアフターコロナ書簡もとい「解放のあとで」……アフターコロナどころではなくなってしまいましたし、皆さんガッつりマスク着けてるでしょう?……ですが、いまこうして皆さんが読んでくださっている(ありがとうございます)ように、これら文章は全てnoteなるウェブ上のプラットフォームにアップロードされています。こうしてこれ見よがしに身内向きの文章を外向きに読ませている間にもメルキド出版による前衛アンソロジー第二弾の計画は着々と進みつつあり、自分も原稿を今まさに準備しているところです。前衛とは何か? という問いについては、来たるべき前衛アンソロジー第二弾で愚考を示すとして、水底さんにもし自分から伺うことがあるとすれば、日本民俗学における仏教と祖霊信仰の関係について、乃至は日本列島における祖霊信仰一般について、でしょうか……柳田國男『先祖の話』をはじめ百余年の進展のなかで様々議論があるでしょう。書簡でなくともどこかでお伺いできれば幸いです。
 随分気温が下がりました。秋分ももう過ぎました。えすてるさん水底さん幸村さん、歌猫さんyoshiokaさんそして松原さん、くれぐれもでしょうか、どうかご自愛くださいませ。



注1:メイヤスーの要約を兼ねて「法則」にかんする単純な図式を提供しておくと読者の便になるかどうか。
 デカルトは因果性の原理や論理法則といった「世界の構造を成すと想定される不変項」を人間の意識とは無関係にそれ自体として存在するとみなして、その独立した安定性の証明のために神をも持ち出した。
 これに対してカントの批判哲学は因果律や論理法則、知覚の諸形式をもっぱら人間の側に帰属させることで、一連の不変項の即自的な存在の証明の必要性を棄却した。「不変項」は自然の側ではなく人間の側にあるのだから、自然にそれを求めるのはまったく見当違いだということになる。そして、世界のあらゆる現象は人間と関係するかぎりで存在するのだから、いかなるものもそれを離れては存在できない、つまりなにものも必然的に存在するとはいえない。とはいえ、人間の意識とかかわらない領域にある「物自体」については、認識することはできなくても考えることはできる……ということで「弱い相関主義」とメイヤスーはこれを呼ぶ。
 しかしなぜ「物自体」について思考しうるのか、語りうるのかという疑問からドイツ観念論以来の「強い相関主義」が現れる。これは意識とその現象のあいだにある関係性を絶対化するもので、早くはシェリングにみられ、ヘーゲル以降ショーペンハウアーもニーチェもベルグソンもドゥルーズも似たような図式を頻用した。ここまでくると、意識ないし何らかの「世界」と関係していないものは存在しないということになる。あらゆる存在するものは、意識に対して存在するのであって、それを離れては何もありえない。そして……ここがカントから一歩踏み込んだ議論なのだが……意識を離れた「物自体」の存在については、その可能性も不可能性も思考することが出来ない。世界の骨組みを構成する「不変項」として思考可能なのは、もはや意識と現象の「関係性」だけである。
 長くなったのでさらに要約すれば、デカルトは自然法則の不変性の根底に、自然を支配する神という絶対者を据えようとした。カントは自然法則の不変性を自然ではなく人間の側に置くことで、自然の側に何かを要求することを不要にした。ドイツ観念論以降の哲学者は人間の意識と意識現象が結ぶ関係性を神の代わりに絶対者の位置に据えて、意識の外部を考えることから打ち切った。20世紀に入ると「関係性」よりもそれを構成する言語の自然本性に対する注目が集まって(構造主義的言語学の決定的な洞察だ)、言語がこの「不変項」として考えられるようになった。
 メイヤスーが提案する観念とはすなわち、この「不変項」自体の可変性である。

注2:事物についてその絶対性を確証できないとしたら、その背後の諸規則、諸原理、諸法則にしたところで、どうしてその絶対性を確証できるというのか?

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