ユートピアについて その36:ミヒャエル・ヴィンター『夢の終焉』のユートピア観

 ミヒャエル・ヴィンターは戦後間もない東ドイツに生れ、壮年期にさしかかる頃までをこの社会主義国家で生きた作家である。ユートピアに関する文献を網羅する書誌学的研究に裏打ちされた長編随筆『夢の終焉』は、労働者のユートピアを目指した祖国の崩壊を前に感じる幻滅と、研究を経て蓄えられた多方面に及ぶ知識によって、穏やかな語り口に冷ややかな視線が見え隠れしたものとなっている。
 ユートピアという言葉を発明したのはトマス・モアだが、ヴィンターは百年後のイタリアの「ユートピアン」、トンマーゾ・カンパネッラにより頻繁に言及する。かれの『太陽の都』は惑星と天球を模した七つの城壁によって囲われた都市を登場させ、学識者による賢人支配が布かれている。占星術に関心を示したカンパネッラは星と人間の魔術的な相関関係を信じ、家畜の交配と同様に人の交配にも占星術的配置を参照し、また番わせる組み合わせも、各人の身体的、精神的特徴ごとに、厳密に分類・配分するべきであると主張した。ヴィンター以外の著者も引用する箇所では、カンパネッラは「太陽の都」で最も知性的に優れた階級に、最も美しい女を与えるよう記している。
 ともあれ、都市を囲う城壁の七つの円という構造にヴィンターは注目する。左右対称、上下対称、シンメトリーの図形は初期近代以来理想的な形態とされた。北イタリアのルネサンスの時代には、人体すらも対称構造を持つものが最も美しいとされ、理想状態の現実的表現として、対称形、幾何学的構成が貴ばれた。
 16世紀を過ぎてカンパネッラの活動期である17世紀、絶対王政の時代を迎えると、この対称的形態は、全ての個体を遺漏なく把握するための形態として用いられるようになる。フランスの庭園の幾何学的形態は、宇宙的調和ではなく、少数派による全体支配の形象化である。絶対王政的な支配形態としての幾何学的形象の最も完成したものとして、18世紀後半、ジェレミー・ベンサムの一望監視装置が挙げられる。
 19世紀になると、大革命を経て絶対王政は崩壊したが、少数支配のための形象としての幾何学的構成は存続し、小市民的恐怖体制へと変容する。この典型は1860年代のオスマン男爵によるパリ改造計画である。首都を改造し、幾何学的形象によって整備し、そこに収まらないものを排除しようとするオスマンの都市計画は、労働者という市民には了解不能のものを排除するために、空間をまるごと制御し、上空から一望するかのように都市を支配しようとするものだった。こうしたブルジョワの企図は、後続するセミョーノフやシュペーアといった20世紀の建築家のギガントマニアを、18世紀の庭園と結ぶ架け橋となる。
 20世紀の「ユートピア」的建築として挙げられるのはアルベルト・シュペーアによる世界都市ゲルマニアと、セミョーノフによるモスクワ建設計画の二点。一方は「ギガントマニー、記念碑的な硬さそのもの」、他方は「歴史を停止させる建築様式」と呼ばれる。
 幾何学的形象は事物の自然発生的な構造を圧砕し、そうした形象が都市計画に用いられる場合には、人間の営為が蓄積してきた歴史を抹消し、圧砕以後の歴史的蓄積をも防ぐことで、都市そのものから歴史を抹消するのだと、ヴィンターはそう主張する。幾何学的図形に対する繊細な自然という対比はユートピア論の文脈以外でもしばしば言われることだが、ここからヴィンターは「太陽の都」・絶対王政期のロココ調フランス庭園・ブルジョワ的都市改造計画・全体主義体制の都市計画という、歴史=自然を破壊する幾何学的形象の系譜を語り起こす。
 一点興味深いのは、建築様式についてはともかく、本邦ポストモダニズム論客のひとりであるイワヤ・クニオが他と区別しようとしたシャルル・フーリエの「ユートピア」もまた、ヴィンターによって他と同様の抑圧的ユートピアとして語られている点である。これについては後に述べる。

 最近noteの更新とは別のことで毎日キーボードを叩いており、こちらに手を回す余裕が無くなりつつある。もう少し計画的に打ち込めればいいのだが、あまり芳しくない。残りは次回以降に。

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