ユートピアについて その34:ヘクスター③(モアの思想の階位制について)

 へクスターは本書の方針として、『ユートピア』が持つ社会批評としての一貫した意図を想定し、なおかつユートピア島に表現された諸要素のうちモアが最も重視したのは何か(提示される諸思想の階位制はどのようなものか)を示そうとした。モアは人間社会の悪の根源を傲慢であるとして、それを抑制するための制度と思考法を『ユートピア』で展開した、とヘクスターは結論する……と前回の更新で書いた。モアの思考を再構築していくヘクスターの議論の中で、モアの「階位制」はどのようなものとして描かれているのかを以下で要約する。
(次回、来週か再来週かの更新では、ヘクスター①・②・③に散らばった文章を読みやすくひとつにまとめることになりそう。)

 まず、改めて言えば、ヘクスターはモアを社会主義の先駆とみなそうとしない。モアはあくまで信心深いカトリックの俗人であり、『ユートピア』は教会や修道院の体制の擁護、あるいは義務的な労働からの解放の理想のために書かれたものではなかった。したがってヒュトロダエウスが語るユートピア島の体制には、刑罰としての奴隷的労働、国内における市場と貨幣の禁止、欲望の制限という、近代社会主義の観点からすれば反動的と呼べる要素が含まれている。こうした要素が『ユートピア』に入り込んだのは、モアの悲観主義的人間観に由来する。自由な人間が鎖に繋がれており、これを打ち砕かなければならない、という近代的ヒューマニズムの思潮とは異なり、初期近代のヒューマニストであったモアは、人間社会の悪は単に社会制度の悪性のみによるのではなく、その構成要素である人間が持つ悪徳にもよると考えていた。この悪徳はあまりに深く人間の本性に食い込んでいるため、単なる社会の経済組織の再配置によっては破壊することができない。この悲観主義のために、ユートピア島の政府は自らを、そしてその構成要素である国民を、常設的強制権力によって縛めることとなった。

 モアが問題視した人間が持つ諸悪徳のあいだに見られる階位制、これがヘクスターが本書で問題にする階位制の中心にある。モアは、彼の時代に共有された諸悪徳の一覧表の一部を、諸悪徳の根源とみなした。三つの主たる悪徳がある。一に怠惰、二に貪欲、三に傲慢である。
 怠惰については、社会に蔓延る諸悪徳の中で最も目に付きやすく、著しいものであるとされる。飲酒や賭け事、口論と言った無益な事柄へ人々を向かわせ、社会に必要な労苦から人々を遠ざけているのは、ほかならぬ怠惰である。怠惰及び怠惰から生じるこうしたふるまいは、社会体に対して致命的な悪影響を及ぼす。ただし、怠惰は最も根源的な悪徳とは言えない。次の二つの悪徳が、根源的な悪として名指しされる。
 そのひとつ、貪欲ないし強欲は、傲慢と並んで根源的な悪徳とされるが、貪欲は人間に特有のものではない、動植物を含むすべての生物に共通のものであり、欠乏からの恐れによって生じる。したがって欠乏への不安さえなければ強欲の悪徳は克服できるのだから、それ自体の内に根源を持つものではない。むしろ、社会の構成員全員に欠乏への不安のないような経済組織の再配置がかなうなら、強欲の徳もまた消滅することだろう。ヘクスターは以上のように論じて、「羊が人を食う」に象徴されるモアの強欲批判の印象とは裏腹に、強欲の悪を階位制全体の第二位に置く。
 悪徳の階位制の頂点に位置するのは、ヘクスターによれば、傲慢である。傲慢は欠乏への不安とは無縁であり、それ自体に根源を持つからである。ただ人間だけが、「必要もないのに、ものを見せびらかして他人を凌ぐのを栄誉と考える高慢心だけ」から強欲となる。人間の本性に根付いているこのような悪徳から、社会体の全ての部分を堕落させ、衰弱させ、破壊するあらゆる悪徳が生じる。
「細い毛糸の服をまとっているからというだけで自分がより高貴な人間であるかのように」、「上等な衣服をまとえば、自分たちの価値がもっと上がるかのように思い込んでい」る。モアはヒュトロダエウスの口を借りて、傲慢から人間が他人に求める種々の事柄を声高に非難してみせる。「他人に帽子をとってもらったり、他人の膝を屈めてもらったりしても、いったいどういう自然な、真の快楽が与えられるというのでしょうか。それであなたの脚の痛みがとれるのですか。あなたの脳炎が軽くなるというのですか。」勿論そんなことはない。自尊心を満たす喜びは脳炎や脚の痛みを紛らわすことにはなるが、根治療法にはならない。こうした傲慢に由来する快楽は贋のものである。
 その贋の快楽のために、お追従の付き人や、不必要な衣服・物品を作る労力を使い、同時に金銭をも浪費することで、その代わりに数多くの人々が「贅沢に暮らす怠け者を養う荷役の家畜のように」取り扱われることとなる。こうして、欠乏への不安という根源を取り除いてもなお残る悪徳である傲慢によって、社会体全体が毀損されていくことになる。それ自体に根源を持つ傲慢の悪徳については、ただ人間を既存の経済組織から解放するのみならず、人間に外部から規律を与え、矯正しなければならない。
 モアが傲慢の悪徳を階位制の最上位に据えたことが、ユートピア島の強権的性格を帰結しているとヘクスターは主張する。「もしも、強欲が社会にとって大いに危険なものであるならば、ユートピア国家は、モアが処方したものよりはるかに厳格でなく、抑圧的でない線にそって制度化されたであろう」。しかしそうではなかった。事実、現代の文芸評論家の鴻巣友季子は近刊『文学は予言する』において「ユートピア=ディストピア説」を提唱し、ディストピアの起源のひとつをモアに求めている。それほど厳格で抑圧的な体制がユートピア島に求められたのは、「羊が人を食う」という強欲ではなく、食うに困らぬ人間の傲慢こそ16世紀の社会悪の真の根源であると、モアが見定めたからだった。そのようにヘクスターは結論して、直近百年の「解釈の混乱」に終止符を打たんとした。

『自然主義入門』を読むための準備としてサールの『MIND』を一読することになりそう。

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