ユートピアについて その4

「ユートピアについて その2」では旧約聖書中の失楽園のエピソードについて書いた。パウロのテモテへの手紙2についてももう少し調べたいと思う。

『ヒロインたちの聖書ものがたり キリスト教は女性をどう語ってきたか』2020年、ヘウレーカの中で福嶋裕子は、旧約聖書の失楽園のエピソードが書かれた時代はパウロの活動した紀元1世紀前後から離れていること、したがってギリシア人の女性嫌悪的な傾向は失楽園のテクスト自体には見出されないことを指摘している。(旧約聖書続編……『シラ書』……には女性嫌悪に属する表現が見えるが、これはヘレニズム時代のギリシア文化の隆盛によるものであるとされる。『ヒロインたちの聖書ものがたり』p. 26.)

同書における福嶋の叙述のスタンスは、まず家父長制における男性優位と女性を男性に対して劣等なものとみなす女性嫌悪とを切り分け、前者はユダヤの伝統社会にも存在するものの、後者はあくまで古代ギリシアに由来すると見るというもので、次の引用部はその立場が分かりやすい。

アリストテレスに限らず、古代ギリシアの思想は女性を劣等・邪悪な存在とみなす傾向が強い。そのような傾向性のことを「女性嫌悪(ミソジニー)」と呼ぶ。[中略]総じてヘブライ語聖書にミソジニー的要素は出てこない。むろん男性優位の家父長制は、聖書に根強く影を落としている。(pp. 11-13.)

 家父長制はユダヤの伝統的社会に確かに存在し、そこでは家長たる父親に家族は従わなければならない。しかし、それは制度上の問題であり、存在論的な善悪・優劣の問題ではない、と言われる。

 福嶋の叙述はヘブライ語聖書、またギリシア語聖書における女性像を検討しかのじょらを肯定的にとらえる道をさぐるものである(から、例えば創世記の叙述を紀元1世紀にパウロやその周辺の人々がどう解釈したか……といった話題には立ち入らない)。ひとまずエバの章だけ読んだ。

追記:「ワン・セックス」モデル、人間には唯一の性である「男」があり、「男」ではない「女」は「男」の未完成品であるという「性」理解が、ギリシアの文献以来それを継承した西欧においても長らく支配的であったらしい。福嶋はトマス・ラカー『セックスの発明――性差の観念史と解剖学のアポリア』(邦訳1998年、高井宏子・細谷等訳、工作舎)を引いている。現代人が固定的なものと見がちな肉体的性別・「セックス」もまた、歴史の中で変化しながら形成されたものである、という。ジェンダーのみならずセックスをも規定する権力と、社会的/生物的性別を超えた「セクシュアリティ」、現代の思想的営為を背景にジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で論じた事柄について、トマス・ラカーは歴史的側面から論じようとしているというところか。、近所の図書館には『セックスの発明』はない。歴史学の本をもう少し真面目に積んで読んでいこうかと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?