『小説の経験』:ミハイル・バフチンの分析における「グロテスク・リアリズム」の概念――大江健三郎の解題による

 大江健三郎『小説の経験』p. 35. f. 参照。
 ヨーロッパの民衆文化を総括する術語「カーニバル」、その中心的な特徴を総合して呼ぶ語である。「民衆の笑いの文化のイメージ・システム」とも。いかめしいもの、儀式ばった厳粛なものとは異なる、笑いを根本に置く文化が存在し、それが現れるイメージを総合した術語がグロテスクリアリズムである。
 物質的肉体的な原理が重要視され、宇宙的・社会的・肉体的な要素が、肉体的なものを原理として、ひとかたまりになってあらわれている。死と共に再生のイメージが表現されて、一々のイメージが二つの意味を有するようになる。大江はこれをアンビヴァレンス(両面価値的)と呼んでいる。小説の言葉はこうした肉体的な原理を優先させた、非抽象的なものであることが求められると大江は言う。

 p. 36. f., ibid. 井伏鱒二『かきつばた』参照。笑いのない作品ではあるものの、肉体性もっと言ってしまえば物質性が強調される小説であるから、グロテスク・リアリズムと呼んで差し支えあるまい。季節外れのカキツバタの狂い咲きの目撃を物語る「私」から始まる小説は、一輪咲いている狂ったカキツバタの紫色のそばに死体が浮かんでいる、「人間」「人体」とある。細かい描写は大江は引用していないが会話によって済まされたらしい、物である人体(なにしろ物体とも言うのだから)という視座が打ち出される。この狂い咲き、つまりはそれを引き起こす太陽の巡りの不順が池に浮かぶひとりの人間の死体また原爆と重なり、知人宅の前のカキツバタの咲く小さな池に何か大きな宇宙的なものが招来される。同時に戦時下という社会的なものを背景に据えることで、ひとつの娘の肉体に、肉体性・社会性・宇宙性(最後の物は仮にこう造語する)をいちどきに埋め込むことになる。

 p. 115. f., ibid. 参照。古井由吉の『楽天記』を論じる大江。小説家・柿原とその友人・奈倉の交流と、奈倉の死による交流の断絶。並んで柿原も肉体を病み外科を頼ることとなる。亡くなる奈倉の生前の証言より、赤ん坊の生まれているような匂い、「物の匂い」。柿原の頸椎手術後の見舞いに来る編集、若い編集の言葉より、「病室で赤ん坊の匂いを嗅いだ」由。イスラエルの荒野に存在する実在的な死と、潜在的に新しい生を孕んでいるような感じ。両面価値性である。p. 117.「死が生をはらむという考え方は、ヨーロッパ文学ではグロテスク・リアリズムと呼ばれる主題の系統に入るものだ。グロテスク・リアリズムは肉体性と笑いを柱とするが、死をひかえた友人の風変わりな身振りと匂いへの敏感をとらえるのは、肉体性の協調だし、小説家の笑いは繰り返し描かれている。」
 老年の人間の思う死と赤ん坊の生誕の匂いが重なるというわけだが、やや首肯しかねる。死産という不幸は今なお世界のおちこちに転がっており、母体にとっても自然分娩は今なお死の危険を脱却したものではない、ゆえにこそ「妊娠出産を決める権利は女にこそあるのだ」という一種大仰にさえ聞こえる主張が現実存在するのだし、悪阻に始まり膨れ上がる子宮は内臓を圧迫しのみならず歩行をも困難なものに変容せしめ、十月十日に渡って母体を煩わせるのは言うまでもない(妊娠出産つまりは人間の再生産というものがいつか人の手を完全に離れ、もはや誰の心身も、社会上の進退をも煩わせることのなくなったとき、子の生誕はどのように捉えられるであろうか……想像力の遣い処である)。赤子の内に人間の輝かしい生という契機が象徴的に見いだされうる、しかも老年に差しかかった小説家とドイツ文学研究者と対比されて見出されるという理屈は理解できないものではない。しかしむしろ赤子のうちにこそ濃密な死のにおいが漂っているのではないか。

 死の内に生を見出す、死中に活を見出すというのではないが、そこにはなにがしか楽天的なものが響く。楽天結構然るに死は累累として人間に迫り、薄皮一枚向こうの死の、そのつどの幻視であり、暗闇であり、死体を思わしめるのではなかったか。(しかしこれらは観念の領域にこそむしろ迫るものであって、大江の奉ずるグロテスク・リアリズムの非抽象性には馴染むものではない。また世紀末に生まれこれを書いている筆者に比べて、二十世紀中葉に生を受けた大江・古井の二人はよほど実際の死に触れ馴染んでいた、それがためにより肉体的な、切実な希求として生の楽天を志向しているのではないか……と言い添えることもできる。)

 九死に一活を得た赤子の血まみれに哭する声に死のひたと寄り添うことを感じて、人は惻隠を覚えることを知らずや。子の無知に微笑みながら手をとり引き上げる親の所作の一々に、実現された惻隠の、かつて未成であったものどもの影が重なるのではないのか。赤子を孵さんとする母の、日々重くなる肉の体の内に、生死の目も分かれきらぬあやうい死がひそんでいるのではないか。

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