ユートピアについて その19

 三上剛史「ユートピアニズムとミレニアリズム:ユートピア論における聖俗理論的視座設定への布石」、『ソシオロジ』29巻2号、1984年、p. 45-63. を読んでいる。読んだ。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/29/2/29_45/_pdf/-char/ja

 前半部ではマンフォード、マンハイムをはじめ70年代にまで及ぶ各国のユートピア論者の異説を並べて、その分類法を要約している。トーマス・ミュンツァーの千年王国的思想とトマス・モアのユートピア島構想の差異として時間的・空間的差異と共に聖俗の差異が挙げられ、そこから後半部では、ユートピアニズムの俗性の分析のためにホイジンガとカイヨワの「遊び」の概念が導入される。ホイジンガにおいては遊びは聖性と結び付いてともに俗性と対立していた。これに対して、カイヨワは聖性と遊びを切り離して遊びの形式性に注目した。カイヨワの「遊び」概念は聖性とも俗性とも離れて独自の形式性を有する。三上はユートピアニズムの俗性にこのカイヨワの遊びの概念を紐付け、千年王国的な熱狂の欠如と現実社会とはかけ離れた奇想の両立、というモアのユートピア島の特徴を叙述しようとする。ユートピア的虚構は歴史と直接的に切り結ばず、しかし奇想と諧謔によって歴史の動向に反応しようとする。そこでは既存の社会の聖俗の観念から切り離された「遊び」が鍵となる。ミュンツァーの千年王国も理想社会を求めるかぎりでまたユートピア的と呼ばれるのだが、聖性を志向し、遊びを欠く点で、モアのユートピア島とはかけ離れている。

 ミュンツァーについて……未来志向型のユートピア的想像力は「地理上の発見」が尽きた18世紀を待たなければならないとどこかで書いた。しかしモアの系譜に属する、奇抜な想像力に富んだ理想社会の構想としてのユートピアとは別の、(近い)未来に実現される理想社会の構想をも考察の範囲に含めるならば、これもまた黙示文学以来の長い伝統が地中海以西にはある。トーマス・ミュンツァーはトマス・モアの同時代人として歴史に参入し、未来に実現される理想社会の構想の下に奮迅した。彼について今後とりあげるかはだいぶ怪しい(何しろ彼は虚構を書いた人ではないので)が、一例として記憶に留めるべき人物ではある。

 プラトンにまで遡り、モアを経て空想的社会主義者やウィリアム・モリス等に至る一連のユートピアニズムでは、

合理的で正しい、人間の本性に合致した社会が(いつの時代にも)可能態として存在し、そのような社会の存在可能性を発見し適切な制度を設ければ、理想的で「完全な」社会が実現するという、完全性と人為性への強い確信が背景に存在する。

 と言われる。これに対してミュンツァーをはじめとするミレニアリズムでは、

人為性の関与する余地は初めから無い。「歴史」は圧倒的な実在感を以て迫り来る神聖なるものであり、如何なる人為的手段によっても変更され得ない、人間のカを超えた力である。理想的社会は人間の手によってその都度完成され得るものではなく、.歴史的段階を経て時間の経過とともに形成されるものである。

 三上はいわゆる進歩主義をミレニアリズムの系譜に掉さすものであると定義するが、ここで二者を分けるのは人為の優位如何である。神をはじめとする聖なるものの優位を認めるか否か、人間の力による現状変更の可能性を認めるか否かが、三上によるミレニアリズムとユートピアニズムの弁別の要点となる。乱暴に言ってそれは前近代と近代の違いと言える。
 合理的で正しい、人間の本性に合致した社会が(いつの時代にも)可能態として存在し、そのような社会の存在可能性を発見し適切な制度を設ければ、理想的で「完全な」社会が実現する……人の手によって。しかし人間の本性に合致した合理的な理想社会が可能的に存在する事実、これは人の手とは何の関わりもあるまい。
 機智を含めばこう表現されることになるとしても、人為によって実現されるものが人為よりも大きなものを含んでいるとは考えることができる。ラプージュの、またシオランの訝しむさまは、聖性を持たないが人為よりも大きなものの存在をみとめる後近代の視座に基づく。

 邦訳のある参考文献――ノーマン・コーン『千年王国の探求』、カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』。

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