ユートピアについて その11

中国文学者・伊藤直哉による『桃源郷とユートピアーー陶淵明の文学』を読んでいると、社会主義的理想としてのユートピアの観念の勃興、およびソビエト連邦の崩壊に至る20世紀の歴史が突きつけた同観念の破綻についての書籍として、川端香男里『ユートピアの幻想』(1993年、講談社学術文庫)の名が挙げられていたので、これを読み始めると、「東洋のユートピア」にまで一章を割き、ユートピアの観念の百科事典の如き様相を示している、大変ありがたい本である。

ユートピア文学の四要素

16世紀以降19世紀までのユートピア文学について、トマス・モアの著書以来多くの作品が共通して持っている特徴として、川端は次の四点を挙げている。

1 芸術的な文学ジャンルとしてのユートピア文学であること

2 封建制の解体のなかから生まれつつあった資本主義的要素へのプロテストであること

3 新しいより良き社会へのプログラムであること

4 あるべき社会の総体の記述、一種の人類誌学(エスノロジー)であること

「これ以後のユートピア作品がこの要素をみな備えているわけではない」としながらも、やはり多くの「ユートピア文学」がおおよそこのような要素を持ちあわせているとする(p. 117.)。だからこの四点をチェックリストのように用いるのは――とりわけ減点主義的に、「どの項目の要素が無いからどうこう」と言うことは――川端の趣旨に悖るとはいえ、『彼岸花が咲く島』を一「ユートピア文学」として見た場合、これら四つの要素が確かに含まれていることは否定できない。

1について言えば、間違いなく『彼岸花が咲く島』は散文による小説という一芸術的ジャンルに属している。2については『彼岸花』にはモアの著作の如き資本主義批判の要素は無いものの、同作が現代の日本社会に対する批判的視座を有することは明白である。川端が2で挙げる「ユートピア文学の共通要素」は、現代でも通用するように拡大解釈すれば、資本主義というより同時代状況への批判である(補注1)。16世紀から19世紀に至る近代西欧(とりわけ英仏)において顕著な社会問題は資本主義の残酷な側面であり、ユートピストによる資本主義批判とはすなわち同時代の社会問題に対するプロテストだった。李琴峰もまた『彼岸花』のなかで、国粋主義的装いのもとに行われる破壊的な言語改革(補注2)、規範的とされるもの以外の性愛の禁止……といった、現代日本に根を張る諸問題を戯画化するような国家を朧気ながら登場させ、〈島〉に対立させることで、理想的な小社会としての〈島〉の性格を際立たせている。4については『彼岸花』を読めばわかるとおり、作中で描かれる折々の行事や、漂着した少女・宇実が体験する〈島〉の生活の描写が、そのまま豊かな人類誌的叙述になっている。唯一その傾向が薄いか、ほとんどないのは3の「新しいより良き社会へのプログラムであること」だが、『彼岸花』がこれを欠いているのは16~19世紀のユートピア文学と同作のスタイルが顕著に異なっているためである。

ユートピア文学のスタイル

序章末尾にて川端はユートピア文学がとるスタイルについて次のように述べている。

理想として描くべき社会の完全さと、その実現の可能性を説得し、非現実的なイデーを真実味をもって表現するために、ユートピアンはリアルなテクニック、記録文学的手法を用いることが多い。(p. 49.)

多くのユートピア文学は、異邦の理想国家を、その見聞者が物語るという形式をとる。そこでは語り手は外部から一時的に立ち寄っただけの客人の位置を占める。また、語り手が異邦を物語るのは、語り手が属する社会に自らが見聞した異邦を示し、以て自らの社会を改良せんとするためである(この社会改良という動機はそれ自体、語り手が当の社会において相応の高い地位を占めることを示唆する)。これに対して、『彼岸花』の宇実は、海難事故の末に漂着した難民であり、作品後半で明らかになるが自らの属する社会(国粋主義的、反動主義的な色の強さを思わせる未来の日本?)から不適格として追放された身の上である。彼女には、社会における相応の地位はおろか、〈島〉を出て帰るべき社会、彼女自身が帰属する社会がそもそもない。こういった人物の立場の違いが、『彼岸花』が3の明確な提示を欠くこととなった理由の一つである。

上層から下層へ

多くのユートピア文学においては主たる人物は社会の上層に位置し、『彼岸花』の宇実は異なる、と書いた。別の社会を語り、描き出すにあたって、どのような地位の人物の視点を選ぶかによって、その作品がとるスタイルも変わってくる。社会の底辺と呼んでもいいし、民衆と呼んでもいい、あるいは理想社会において底辺や頂点やの階層は無いとすれば単に人々と呼んでもいい、そのような地位からある社会を描こうとする試みは、『彼岸花』に限らず、とりわけ1990年代以降の「ディストピア文学」において顕著である。そう語るのは鴻巣友季子である。

かつてのディストピア小説は現実味というのを重要視していた。未来の世界観を構築するのに、想像しうる最先端のハイテクノロジーを投入した。……しかし一九九〇年代以降は、未来を舞台にしたディストピア小説でも、その世界観を表現するのに、マスキュリニティに彩られたSF的ガジェットをあえて投入しない『侍女の物語』や『密やかな結晶』のような描き方のほうが、むしろ主流になってきたのではないだろうか。二〇〇五年に出たカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』も、高度に発達した遺伝子操作やクローン技術は物語の背後にあるだけで、つまびらかにしない。その後に刊行された多和田葉子の『献灯使』(マーガレット満谷英訳のThe Emissaryが二〇一八年全米図書賞翻訳文学部門受賞)にしても、J・M・クッツェーの『イエスの幼子時代』に始まる三部作にしても、ディストピアな管理体制は不気味にぼんやりと背後に浮かびあがるだけで、機構の詳細は説明されない。(強調筆者)

読んでいる作品が『献灯使』しかないのでこれを思い返しつつ書くが、この作品での主たる登場人物は軟体化した虚弱な肉体を持つ孫・無名とその祖父で長寿と異常な壮健を獲得した義郎の二人だが、彼らは行政機能が半ば停止したような(補注3)社会で不自由しつつ生きている。あるいは邦訳された時期に鑑みて90年代邦訳の『侍女の物語』をも思い返すなら、この小説の語り手「オブフレッド」は、革命政府の「司令官」の邸宅に住んでいるものの、与えられた役割は非人間的なものであって、少なくとも読者の目にはその地位は低いものと見える(補注4)。音声テープに録音された長大な物語の書き起こしという体のこの作品の中で、「オブフレッド」は自分の生活について多くを語るが、「侍女」として生活の四方を拘束され常に監視を受けている彼女の視点からは、革命政権の統治機構の全体的構造がヒュトロダエウスの要約するように見えてくることはない。

このことは鴻巣の言う「マスキュリニティ」すなわち高等技術や政治的権威にアクセスできる男性の視点から、いわば「フェミニティ」、つまりそうした「上層」のものどもとは無縁な女性の視点で社会を語ろうとする方への、傾向の変化があることを示唆している。『彼岸花』は『侍女の物語』あるいは『密やかな結晶』に代表される「下層」からの語りという方法論を、しかしディストピアではなくユートピアを舞台に行ったものである、と言うことが出来る。


(補注1)16世紀から19世紀に至る近代西欧(とりわけ英仏)において顕著な社会問題は資本主義の残酷な側面であり、ユートピストによる資本主義批判とはすなわち同時代の社会問題に対するプロテストだった。

(補注2)漢語を排斥しつつ「史実」を「ヒストリカル・トゥルース」、「家族」を「ファミリー」と言うなど英語由来の語を平然と流入させる『彼岸花』の「ひのもとことば」は、同意を示すに「アグリー」と言い、「エビデンス」「アジェンダ」云々と翻訳の努力を放棄した音写を用いる現代日本語の流れを想起させないこともない。

(補注3)しかしどうやら完全に停止したようではないらしい、何故か機構は地下に隠れるようにして潜に存続しているようなのだが、その存在が登場人物らの前にあからさまに現されることはない。

(補注4)ちらりと描かれる「収容所」(だったか)での強制労働に従事する老女たちの方が、あるいはより低い地位にあるかもしれないし、またギレアデ共和国の教義の中では「侍女」の地位を高く設定しているかもしれないが、それらはひとまず措く。

(補注n)宇実は海の彼方から海難事故の果てに流れ着いた漂着民であり、そのかぎりで外部からの来訪者である。また、「ひのもとことば」という〈島〉の統治者の用いる言語「女語」に近い言語を習得しているという点で、彼女は島の「知識階級」に極めて近い、ヒュトロダエウス的地位を得ているものではある、としても……。

(補注m)『彼岸花が咲く島』のプロットは、外からやってきた人物が社会内部の不条理に直面し、その謎を究明しようとして最高権力者との対話へ流れゆく、そしてそこで社会の成立にまつわる秘密が語られる……と整理すれば、『すばらしい新世界』後半とそう変わらない結構であると見える。

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