ユートピアについて その37:ミヒャエル・ヴィンターのユートピア論②

「その36」に加筆し小見出しを付けたものになる。加筆分は「19世紀のユートピア」とその少し手前。

著者について

 ミヒャエル・ヴィンターは戦後間もない東ドイツに生れ、壮年期にさしかかる頃までをこの社会主義国家で生きた作家である。ユートピアに関する文献を網羅する書誌学的研究に裏打ちされた長編随筆『夢の終焉』は、労働者のユートピアを目指した祖国の崩壊を前に感じる幻滅と、研究を経て蓄えられた多方面に及ぶ知識によって、穏やかな語り口に冷ややかな視線が見え隠れしたものとなっている。
 ユートピアという言葉を発明したのはトマス・モアだが、ヴィンターは百年後のイタリアの「ユートピアン」、トンマーゾ・カンパネッラにより頻繁に言及する。かれの『太陽の都』は惑星と天球を模した七つの城壁によって囲われた都市を登場させ、学識者による賢人支配が布かれている。占星術に関心を示したカンパネッラは星と人間の魔術的な相関関係を信じ、家畜の交配と同様に人の交配にも占星術的配置を参照し、また番わせる組み合わせも、各人の身体的、精神的特徴ごとに、厳密に分類・配分するべきであると主張した。ヴィンター以外の著者も引用する箇所では、カンパネッラは「太陽の都」で最も知性的に優れた階級に、最も美しい女を与えるよう記している。

17~18世紀、幾何学的形態と絶対王政のユートピア

 ともあれ、都市を囲う城壁の七つの円という構造にヴィンターは注目する。左右対称、上下対称、シンメトリーの図形は初期近代以来理想的な形態とされた。北イタリアのルネサンスの時代には、人体すらも対称構造を持つものが最も美しいとされ、理想状態の現実的表現として、対称形、幾何学的構成が貴ばれた。
 16世紀を過ぎてカンパネッラの活動期である17世紀、絶対王政の時代を迎えると、この対称的形態は、全ての個体を遺漏なく把握するための形態として用いられるようになる。フランスの庭園の幾何学的形態は、宇宙的調和ではなく、少数派による全体支配の形象化である。絶対王政的な支配形態としての幾何学的形象の最も完成したものとして、18世紀後半、ジェレミー・ベンサムの一望監視装置が挙げられる。
 19世紀になると、大革命を経て絶対王政は崩壊したが、少数支配のための形象としての幾何学的構成は存続し、小市民的恐怖体制へと変容する。この典型は1860年代のオスマン男爵によるパリ改造計画である。首都を改造し、幾何学的形象によって整備し、そこに収まらないものを排除しようとするオスマンの都市計画は、労働者という市民には了解不能のものを排除するために、空間をまるごと制御し、上空から一望するかのように都市を支配しようとするものだった。こうしたブルジョワの企図は、後続するセミョーノフやシュペーアといった20世紀の建築家のギガントマニアを、18世紀の庭園と結ぶ架け橋となる。
 20世紀の「ユートピア」的建築として挙げられるのはアルベルト・シュペーアによる世界都市ゲルマニアと、セミョーノフによるモスクワ建設計画の二点。一方は「ギガントマニー、記念碑的な硬さそのもの」、他方は「歴史を停止させる建築様式」と呼ばれる。
 幾何学的形象は事物の自然発生的な構造を圧砕し、そうした形象が都市計画に用いられる場合には、人間の営為が蓄積してきた歴史を抹消し、圧砕以後の歴史的蓄積をも防ぐことで、都市そのものから歴史を抹消するのだと、ヴィンターはそう主張する。幾何学的図形に対する繊細な自然という対比はユートピア論の文脈以外でもしばしば言われることだが、ここからヴィンターは「太陽の都」・絶対王政期のロココ調フランス庭園・ブルジョワ的都市改造計画・全体主義体制の都市計画という、歴史=自然を破壊する幾何学的形象の系譜を語り起こす。18世紀を通じて隆盛した古典的ユートピアの形式は次のように要約される。

古典的ユートピアはその世界の表面の構造を示すに過ぎない。カンパネッラから十八世紀末に至るまで、理想社会は謎も時間もない連続体の「世界絵地図(オルビス・ピクトゥス)」としてユートピアにおける観察者の目の前に横たわっている。すべての個体は無時間的な社会的永久運動に組織されている。宇宙(コスモス)の外的秩序はユートピアを建設するための構成要素である。個々人は性、年齢、官職、職業によって、肉体的性格的特徴によって分類されている。こうした分類の外的な目印が、ユートピア社会の制服規定である。

ミヒャエル・ヴィンター『夢の終焉』p. 196.

 古典的ユートピアでは、個々人はそれぞれ固有の人格を持つ個人としてではなく、何らかの外的特徴の担い手としてみられ、その特徴に応じて分類される。こうした18世紀の古典的ユートピア(少なくともヴィンターの示唆するところでは、それは等号でディストピアと結ばれる)の完成形が、ジェレミー・ベンタムによって1791年に提示されたパノプティコンである。これは「古典的・分類学的ユートピアの最も完全な、そして最後のもの」となった。ユートピアにおける観察者の目の前に、全囚人の姿が残らずさらけ出される。中心点から全てを一望する古典的・分類学的・絶対主義的ユートピアは、しかし、18世紀末以降、政治的には太陽王のブルボン朝の崩壊と、理論的には自然科学の発展に伴う知識の量的膨張及びその帰結としての「万能の天才」の消失と、それらふたつの出来事と共に放棄されるに至る、とヴィンターは見る。

19世紀、啓蒙のユートピア

 古典的ユートピアに代わって新たな社会構想を打ち出したのは初期社会主義者のひとりシャルル・フーリエである。全体を展望する中心点という古典的求心力に変わり、情念の引力に代表される人間や事物の自然的衝動力が、ユートピアを成立させる求心力として設定、利用される。この力が最も増大したときにこそ、ユートピアが成立する。『愛の新世界』や『四運動の理論』における人間の完成あるいはアンチ獅子、アンチ鯨のヴィジョンのかたちで、フーリエは国家を、人為と自然の垣根を越えて、地球大気圏の全的変化の可能性を構想する。生物と天体の発達・発展、言い換えれば変化がここで語られる。変化の果てにあるユートピアという新たな観念が、全く静的な古典的ユートピアに変わって登場する。
 ここでは「ユートピア的思考の時間化」が起っているとヴィンターは言う。空間的な広がりとしてのみ構想されてきたユートピアが単線的な時間軸の極点に位置付けられ、歴史的あるいは人工的なユートピアを目標とした発達過程という新たな形式が、世界のあらゆる現象を規定することとなる。古典的ユートピアと同じくフーリエのユートピアも「どこにもない」が、それは例えばモアのユートピアが半ば戯れに書かれた不可能事であった――少なくともモアは、(少なくとも同時代の)ヨーロッパにおいてユートピア島と同様の治世が可能だとは全く考えていない――のとは異なり、われわれが生きる今とは時間的に全く隔たった時間の中にあるために、今は「どこにもない」ということになる。
 このような新しいユートピア、ヴィンターは「啓蒙のユートピア」とも言いかえるが、ここにおいて古典的ユートピアにあった支配力はどうなるのか。支配力は消えるわけではない、しかしその基体が異なる。古典的ユートピアにおける中心点からの支配という構想が失効するや、理想状態へと個々人を留め置くための監視と矯正はほかならぬ当人たちの自律へとゆだねられる。支配力の拡大並びに己の完成が、自由な個人の義務として課されることになる。「啓蒙のユートピアンたちは……人間の完成をますます強く省察の中心に据える。ユートピアへの道を開くのは、……人間の絶えざる発展、それも長期的には生物学的発展の内部での、短期的には教育的プログラムの内部での、継続的発展である」(p. 204.)

 20世紀、帝国主義以後の時代に実現したユートピアについては次回の更新でメモを打ち込むことにする。ヴィンターは、あくまで限られた地理的範囲について言えば、モアやベーコンが夢想した理想社会はかなりの程度、あるいは予想以上に成立していると語る。とはいえそれはフーリエ以下啓蒙のユートピアンが思い描いたような全球的な発展の結果では勿論ないし、その地表のごく一部のユートピア化でさえ、地球環境をいささか変えるほどの負荷がかかっているらしいのだが。

(ところでヴィンターは絶対主義時代のロココ的な均整を旨とするスタイルについては書き、巨大建築のギガントマニーをこの系譜に位置付けているが、絶対主義時代に流行した今一つのスタイルである崇高については言及していないようだった。読み落としたか、ヴィンターであれば崇高美をどのようにとらえるか、あるいはヴィンターの議論から崇高美をどのようにとらえることができるか。)

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