ユートピアについて その31:菊池理夫『ユートピアの政治学』とモア

 菊池理夫『ユートピアの政治学』をようやっと一通り読み終えた。1970年代から80年代にかけて書かれたルネサンス期の政治思想に関わる論文をまとめた書籍で、モアの『ユートピア』の他にも同時代の古典文献の受容や、レトリック、エロクェンティアeloquentiaといった政治的弁論の方法論に関する議論も紹介・検討されている。本書は、まずルネサンス期の政治的言論に関する議論を紹介した上で、そのような同時代環境の中で書かれた『ユートピア』を、著者トマス・モアはどのような意図の下に記したのかを検討しようとしている。
 モアの『ユートピア』の検討は第4章で行われる。まず菊池は本章でモアの著作に対する一つの決定的解釈を提出するのではないと言う。菊池は、「近代社会主義の先駆」、「中世修道院の理想化」、「近代ブルジョワジーの社会改革のための具体的綱領」、「たんなる冗談、戯作」、「権力政治、特にイギリス帝国主義のための正当化のための予言の書」、「理想主義の空疎さ、危険性を示す」……といった一連の解釈を提示すること、こうした読解をまず棄却する。「『ユートピア』は多義的作品であり、その複雑さをまずそのまま認める必要がある」。そしてその多義性はJ・H・へクスターが非難するような曖昧さではなく、ルネサンス・ヒューマニストとしてモアが駆使した技巧の所産である。へクスターは『ユートピア』を社会批評の書として読み、社会批評である以上、表現の多義性、言い換えれば、曖昧に解釈される余地を含むことはその価値を下げると主張する。これに対して菊池は、モアが社会批評として本書を書いたことは事実だが、そこで用いられた技巧が純粋に近代的な、文学上の工夫から分離して厳密に・抽象的に書くものとは異なっているため、そのような文書としてこれを読み・解釈することは不適当である、と主張する。
 菊池は『ユートピア』に見られるレトリック、とりわけアイロニーに注目して本書の分析を進める。具体的検討については同書を参照していただきたい。ここでは菊池の見るところの、モアの『ユートピア』とりわけそこでモアが描いた「理想社会」(菊池に倣って〈ユートピア〉と書く)について、主に書く。
 しばしば指摘されることとして、〈ユートピア〉は果たして本当に理想的と言えるのか疑わしいところがある。〈ユートピア〉はユートピア島の全土に広がるものの、外界との交渉を完全に断っているわけではなく、交易や外交的使者の受け入れ、さらには戦争まで行なっている。戦争捕虜を苦役にあてているという記述もある。国家、社会である以上、厭わしい労働は完全に消えることはなく、しかしそれらを理想社会〈ユートピア〉市民にさせるわけにはいかない。そこで戦争捕虜をはじめとする例外的な労働力が動員される。
 斎藤真理子もweb連載「文学は予言する」で〈ユートピア〉の奴隷制の存在を指摘して、「ユートピア」の欺瞞を説いている(書籍化されたためか、web上で同記事を見つけることができなかった。検索の仕方が悪いのかもしれない。生憎と書籍が手元にないので具体的にどこと言えない)。斎藤によれば、『ユートピア』を嚆矢とする理想社会・「ユートピア」は、その実人間を抑圧する逆ユートピア=ディストピアである。「ユートピア」=ディストピアとは、自然を征服し領民を独善的な尺度の下に一元的に支配しようとする高圧的・全体主義的な支配体制であり、そのような男性的原理の下に抑圧される少数者、例えば女性がいる、というようなことが言われる。
(ユートピア的なものが高圧的な支配原理を持つという同様の指摘としてジル・ラプージュ『ユートピアと文明』や巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』第三章の所説を挙げることができる。ジル・ラプージュは古代ギリシアのポリスが多くミミズののたくったような曲線的な街路構造を持ち、混沌とした様相であったところに、直角に交わる幾何学的造作の都市計画を提出したヒッポダモスを「ユートピア」的なものの鼻祖としている。巌谷も〈ユートピア〉を例にその土木事業を示して、自然に対する幾何学的造形の支配を確立しようとする画一化への意志を見ている。)
『ユートピア』および〈ユートピア〉に理想主義の危険、もっと言えば全体主義の危険を見る読解は多くある。斎藤の視座はドナルド・トランプの米大統領当選に代表される「バックラッシュ」に対する当地の進歩的な女性たちのショックを背景とした、マジョリティによるマイノリティへの抑圧への反対というアイデンティティ・ポリティクス的なものでこそあれ、おおよそ反全体主義的ユートピア観の系譜に連なる。
 菊池はこうした「ユートピア」観に、そもそも〈ユートピア〉はモアによる理想社会の記述では(必ずしも)ないという批判を加える。
〈ユートピア〉内部では価値あるものとしては貴金属は使用されず、市民に奴隷的労働は免除され、暴力も一掃されている。しかし外部に対しては、貴金属は交易のために利用され、戦争や謀略といった政治的暴力が、時として過剰なほどに用いられる。暴力と貴金属・貨幣は、一方では厳格に禁止され、そこから平等な理想社会が形成されるが、他方では放縦に利用される。この一見すると相矛盾するような貨幣と暴力に対する二つの実践は、一見すると欠けるところのない理想的な社会である〈ユートピア〉を同時に理想からかけ離れたものとして描き、読者をして笑わしめる効果を持つ。一方ではまじめな理想社会のヴィジョンを提示しつつ、他方では同じヴィジョンを笑うべきものとして提示する。そこでは、まじめと冗談が綜合されている。菊池はこのまじめと冗談の綜合をモアの同時代人エラスムスの『痴愚神礼讃』にも見出し、これをアイロニーと呼んでいる。それは現実の持つ多義性を認め、それを両義性においてとらえる態度である。両義性を表現するために、反語や言葉遊びをはじめとする数々の技巧が動員される。したがって、『ユートピア』を文学上の工夫から分離して、厳密に・抽象的に読もうというへクスターの提言に菊地は反対を示す。
 このような態度は、〈ユートピア〉の見聞を語るラファエル・ヒュトロダエウスが自ら〈ユートピア〉を非難している点にもうかがえる。ヒュトロダエウスはユートピア人を「公正な立場をはなれて快楽を擁護する学派の立場にやや傾きすぎているように見える」と評し、また、ユートピア人がネフェロゲト人のためと戦争に打って出たことについて「正・不正の問題が実際に事件の根底にあったかどうかはともかく」とその態度を疑問視している。〈ユートピア〉を一度ならず肯定的に語るヒュトロダエウスさえもが、その住民を全面的に肯定しているわけではない。
 しばしばいわれるように、商業上の便宜を図る貨幣と並んで、暴力は社会の形成とその維持において不可欠なものである。それらは「〈聖なるもの〉であると同時に、それらは〈汚れ〉の存在であり、排除されなければならない両義的存在、つまりアイロニー的存在である」と菊池は言う。それらアイロニー的存在は、〈ユートピア〉から巧妙に排除されている。病人や屠殺業者=奴隷は都市から追放される。「社会が必然的に蓄積していく〈汚れ〉を内部にではなく、外部へ排出すること、あるいはそれを儀礼化し、ゲーム化し、戯画化すること、それが〈ユートピア〉で行われる」。
 最善社会を成立させるためには、象徴的であれ、空間的であれ、差異化された〈外部〉が要請される。そこに社会理論上のリアリズムなり、無自覚な管理社会の叙述なり、ディストピア批判の先駆なりをみとめるにしても、モアの描いた〈ユートピア〉は金無垢の理想社会ではない。
「ただ、あえていえば、このようなことは理想社会を記述する時に必ず生じざるをえない問題であり、『ユートピア』のテクストはその著者が意図したかいなかにかかわらず、その問題を簡単に回避せずに立ち向かった点において、他のルネサンス期の理想社会の記述よりもすぐれて政治的なものである」と菊池は結んでいる。

〈ユートピア〉は同時代のイギリスに比べればより良い社会ではあるのだろうとしても、理想社会・最善の社会ではない。モアはもとより承知で〈ユートピア〉を読者に提示している。これがいつ頃完全無欠、金無垢の理想社会として読者に受容されるようになったかは定かではないが、社会主義者を惹きつけた「ユートピア」の叙述の例として菊池はカール・カウツキーの『トマス・モアとユートピア』を挙げている。


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