ユートピアについて その16

シオランのユートピア観

 エミール・シオランの『歴史とユートピア』を読んでいる。少し眺めたところ、第五章「ユートピアの構造」を除いては多くは「歴史」に関するもので、第五章を含めて独自の歴史哲学のようである。
 ジル・ラプージュは20世紀に現れたディストピアとそれ以前のユートピアは同じものであり、ユートピアとは理念的なものによって生成が支配された水晶結晶のような体制であると書いていた。同様の、とりわけこの後者と同様のユートピア観を示す文章が、シオランの第五章にもある。

この種の都では、人々は幾何学的牧歌だの、規定にしばられた恍惚感だの、その他何やかや、胸もむかつく百千の驚異からできあがった幸福にあずかる――否が応でもあずからねばならぬ。これこそが、完全な一世界の、捏造された一世界の景観が必然的に示す様相なのである。(p. 129. 太字は原文では傍点)

 幾何学的牧歌、規定にしばられた恍惚感、といったユートピアにおける幸福の形象の表現には、一種の撞着語法が使われている。ユートピアは原理を持ち、原理に則って、幸福を含めた一切を編成する。この編成された幸福は、幸福ががんらいもつだろう制限からの解放や自由な伸びやかさといった性格を失っている。この伸びやかさの喪失を皮肉る表現が「幾何学的牧歌」であり「規定にしばられた恍惚感」である。
 あまり早く要約したので、他の記述も見ていく。上に関連して、シオランは黙示録における世界の破滅を願う言葉を「訳のわからぬことばの羅列」と呼びつつ、その「訳のわからぬ言葉の羅列すら、非人称の幸福が人々を窒息させ、「普遍的調和」[フーリエの用語。]が人々をしめあげ、圧しつぶしている、あの島やら都やらの記述よりは好ましい」(p. 131.)と評価している。ユートピアにおける幸福は、現実存在する幸福感、恍惚感を統制する普遍的原理によって、圧迫され、窒息させられている、と言われる。
 また、この原理によって、実在感あふれるユートピアの叙述が、まったく信じられないようなものになっている、とシオランは批判している。(pp. 131f. ……フーリエのユートピアについて。)

 ユートピアの別の言い換え――「生成のただなかにおける溶解せざるものの勝利」(p. 138.)。

ユートピアの実現と悪について

 一節の末尾でシオランはユートピアの実現という問題について次のように書いている。「悪魔がイエスに提供したのは、全地上であり、[中略]普遍的ユートピアを、あるいは世界帝国を創立しようとするのは、とりもなおさず、悪魔に加担することであり、そのたくらみに協力し、その総仕上げをすることである」(p. 136.)。ユートピアの理念を抱くことから進んで、それを現実に設立しようとするとき、人はあたかも悪魔に加担するかのようなふるまいをみせることになる。それは地上の支配であり、善からの逃避であり、イデア的だったユートピア像のイデア性の喪失である。


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