ユートピアについて その7

ジル・ラプージュ『ユートピアと文明』を読んでいる。マンフォードに比べると中世の項が充実している。マンフォードは中世のユートピアをアウグスティヌスの「神の国」に代表させてこれを逃避のユートピアとして否定的に位置付け、トマスモアのユートピア島までを省略した。対して、ラプージュはユートピア文学ではなくいわば実践としてのユートピアを対象に中世欧州のユートピアについて書いている。修道院娼家宮廷における恋愛の三種が特にとりあげられる。ただしこれら(後二者だけだったかもしれない)は厳密にはユートピアではなくヘテロトピアだ、と言われる。ユートピアは現実世界やその時間・歴史と何らの関連を持たないことを特徴とする。一方ヘテロトピアは現実を逆転させた、あべこべの、鏡写しである。それは現実を否定するものではあるけれども、ユートピアがもっぱら超然とすることで否定を達成し現実から遊離しているのに対して、ヘテロトピアは現実と不即不離のままに現実を否定する。チェスは歴史とユートピアの境に位置するとされる。チェス盤は白と黒の市松模様で構成され、盤上で行われる戦争は現実の盤上で行われるけれどもプレイヤーの現実とは何ら関連を持たない。しかしながら一々の対局はその回かぎりのものであり、各々は時間の中で展開し、終わる。

古代のユートピアについてラプージュは面白い対比を書いている。ラプージュもマンフォードや巌谷國士と同じくヒッポダモスの計画都市をユートピアの観念の歴史の冒頭に位置付けている、その冒頭部でラプージュはヒッポダモスとそれ以前を対比させて、彼以前には自然natureは次々に成り往く勢いのあるφυσιςであったのが、彼以来ある秩序に従う一様な世界κοσμοςになったのだ、と言われる。おおよそそのようなことを書いている。


ほんとうは先々週にこの分を投稿し、昨日には「8」を投稿するのがほんとうだったが、できなかった。先々週末はマーガレット・アトウッド『侍女の物語』を読んでいた。小谷野敦だったかはあの小説を、あるいはあの小説に触発された後続の作品群を「「嫌な世界小説」であってユートピアやディストピアを描いた小説ではない」と言っていたが、今前半部を読んでいるオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』も、その前半部で特にスポットライトの当たる登場人物であるバーナード・マルクスは理由は不明ながら未来の管理社会に適合できない(20世紀前半の常識に照らせば一般的な)人物であり、作者のハクスリーは『すばらしい新世界』の未来世界を必ずしも完全無欠なものとして提示しようとはしていないようにも思われる。もっとあからさまにすばらしい新世界を語ってもいいだろうに、わざわざそのような人物を配置するからには、そこには何かしらの屈託があるのではないか。

鴻巣ゆきこはディストピア小説の説明も間違っていて、あれは誰かがいいと思っている世界を描いた結果嫌な世界になってしまったのを言うんで、最初から嫌な世界として描いたらただの嫌な世界小説でしかないんだよ(午後9:56 · 2021年9月23日·Twitter Web App)(@tonton1965)

文面を確認すると、小谷野敦のツイートは鴻巣友季子による「ディストピア小説」の説明に対する苦言であるようだが、ウェブ版ツイッターでは去年九月まで遡ることはできないのかわからないが、どうも難儀である。しかし鴻巣の記事をいくらか見てみると、彼女によるディストピア小説の説明として次のようなものがあった。

鴻巣:ディストピア小説には、基本3原則のようなものがあるとわたしは思います。1つは生殖と婚姻のコントロール。2つめが言語と表現の統制、3つめが学術芸術の抑圧です。……そして、いちばん目を引くのは、生殖と婚姻のコントロールですよね。高官の娘でもない限り、女性は「産む機械」「生殖奴隷」として使うか、家事労働者として働かせるかです。女性性を徹底して搾取するという酷い社会が描かれています。(https://realsound.jp/book/2020/11/post-650531.html)

少なくとも『すばらしい新世界』では鴻巣がここで挙げている三つは漏れなく描かれている。「酷い社会」と言われる。なるほど「嫌な世界」か? この問題は最後に先送りしておくこととする。

『すばらしい新世界』は受精卵の段階から工学的措置を施して、α、β、γ、δ、εの五大階層、更にそれぞれの階層に+/-を付けて全十階層に人間を分類し、条件付けと睡眠学習を通じて各階層にふさわしい思考回路を与え、理論上は全人類が各々の生活に満足を得るように育てあげる社会を描いている。この方法は全人類に例外なく厳格に適用されている(国家は消滅し、世界政府によって一元的に人間が製造されている。小説はまさにこの「人間製造工場」の場面から始まり、この未来世界では胎生生殖は全く過去のものになっている)。鴻巣が提起し、特に強調している「生殖と婚姻のコントロール」ド真ん中の社会である。世界政府が人類に与える生活形態は理想的なものとされており、そこから逸脱して生きるなど考えられないことになっている。ところが、われらがバーナード・マルクスは、この未来世界の生活形態、思考形態に適合できない。

さきほど書いたように、世界政府によって全地球が統一された『すばらしい新世界』の世界では、唯一の理想的な生活様式が画一的に各人に与えられている。画一的だからこそ、割を食う、と言えばいいだろうか、そこに適合できない個人が――どれほど例外的なことであろうとも――現れれば、その個人は逃げ場のないモノリシックの世界で、適合できないままに暮らすより選択肢を持ちえない。バーナード・マルクスは先の「工場」での「製造段階」で人工血液にアルコールが混入したせいで例外的な人物になったのではないか――と同僚らに推測されているようだが、原因はともかく、こうした不幸な例外をそのままに放置して進んでしまう酷薄さも『すばらしい新世界』には見える。

2000文字以上も書いてしまったので、最後に……『すばらしい新世界』(ハヤカワepi文庫、大森望訳)冒頭を見ると、ニコライ・ベルジャーエフの文章がエピグラフとして引かれている。曰く、ユートピアの実現可能性がかつてないほど高まった現在、人類は今やいかにしてユートピアの最終的な実現を防ぐか?という問題に直面している。

ユートピアは、かつてそう信じられていたよりはるかに、その実現可能性が高まっているように思える。われわれはいま、新たに警戒すべき問題に直面している。すなわち、ユートピアの最終的な実現をいかにして防ぐか?……ユートピアは実現可能である。生活は、ユートピアに向かって行進している。そしておそらく、新しい世紀が始まるだろう。知識階級や教養人たちが、なんとかしてユートピアを避け、それほど”完璧”ではなくもっと自由な非ユートピア的社会に立ち戻ろうとして、その方策を夢見る世紀が。

何故ハクスリーは人間製造工場を描き、キリスト教の否定と博物館の破壊を描き、(ほとんど)全人類が均等・平等に幸福な未来世界を描きながら、その「ユートピア」(理想国家、理想世界)を否定する内容の文面を掲げるのだろうか? そこにはハクスリーなりの屈託、ユートピアとして夢想される未来が少なからず「嫌な世界」であり、見ようによっては確かに「酷い社会」であり、かつまた、唯一の理想的な生活様式が万人に与えられそこから逃げ出す余地のない社会が、しかし必ずや「割を食う」例外を持たざるを得ず、その例外にとってはこれ以上ない苦痛に満ちたものであるのではないかという疑念……が、あるのではないのか。あると考える方が、あると考えないよりも、妥当であるように思われる。

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