ある神学生の言説にキレるタンナ&ごみクリスチャンタンナ。

今回のテーマは信じる!!!!

始まり

こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。
「宗教なんて信じない」。

この誰に向けてのものか分からない宣言は、2つの背景が透けて見えると知り合いの神学生が会話の中で教えてくれた。
教えてくれたことが真実かどうかは置いておいて、これに関する出来事が興味深かったので共有しますね🫏

宗教を信じない宣言に隠された背景

神学生曰く、宗教を信じない背景は二つあるんだそうだ。
まず1つは、神など信じないで自分の力だけを信じるという「実力主義」的な考えを持っているということ。
もう1つは、宗教以外の信仰対象を見つけたということ。

この背景を考えると、実に勇ましくて現代的な言葉だと私は思う。
実力と宗教の代替え品があれば、宗教なんていらないと。

言い換えれば「私には神様に頼らなくても生きていける」と。
この傲慢さが現代人の特徴だと、神学生の人は教えてくれた。


その話を聞いた時、非常に困惑した。
というのも、何の脈絡もなくこの話をされたから。

これを見ている素敵なあなたにも考えてもらいたい。
タンナ「z世代って何歳からなんだろうね~?」
j「大体25歳以下からじゃない?」
k「z世代ってちょっとおしゃまさんだけど、私は一緒にいて楽しい奴が多いなって思うよ」
タンナ「私の職場の連中は楽しいけど、傲慢な奴が多いよ」
k「傲慢は若さの特権だよ」
神学生「傲慢と言えば、現代人の象徴ですよ!宗教を信じないっていう八つがたくさんいるんだから!それには二つの背景が~」


まず、ご覧いただいた通り宗教の話をしていない。
ちょっとした世間話をしていただけ。
なのに、自分の得意分野である話題をぶち込んできた。
コミュニケーションに課題アリだ。

そして話題のチョイスも良くない。
なにせ私(j・kも同じ)はこの言葉を口から発したことがない。
何故なら、実力がなく宗教以外の信仰対象を見つけられなかったからだ。
というか、周囲にそう宣言している。
なので、私たちのこの話をしても……無駄。

神学生が捲し立てている隣で、私たちが鳩で豆鉄砲を食らったような顔をしたとしても不思議はないでしょう?


しかし!
鳩みたいな顔をしていた私は一つの感想を持った。
「おっまえ!傲慢すぎるだろう!」と。

そう思った理由として、神学生が発した言葉に自信が所属する宗教(この話ではキリスト教)に対する批判や自省の言葉がない。

自分の宗教を悪く言いたくはないが、事実としてキリスト教には殺戮と虐殺の歴史が少なからずある。
現代に生きる我々がそのことを反省できなければ、いったい誰がそれを反省するというのでしょう?
誰かに直接謝るとかそういう話ではなく、反省しないといけない。
二度と愚かなことを繰り返さないためにも。

のんびりクリスチャンの私ですら、こういうことを考えている。
きっと他のクリスチャンも言葉にはしないまでも似たようなことを考えている!
と思う。

というか「信用」している。
身近にある愚かな行為を見て黙ってるほど臆病で愚鈍じゃないと。
いつか何かのアクションを起こしてくれると。


態度から未来予想?


そんな私の信用を余所に、その神学生の言説は所属教会では支持されていた。

当然、私は冷ややかな反応。

まず、賞賛されているその言説は、神学生の言葉ではなく神学生を教えている誰かの言葉だろう。
なにせ、普通の会話すらまごつく彼の言葉にしては流暢に話していた。
彼は賢かったがランダムな要素、つまり予測できないことに関してはからっきしダメだった。
そんな彼が流暢。

ということは、先生か何かか知らないけど、神学生が常日頃話を聞いている人の言葉を聞いてそれを暗記したんだと思う。

どうしてそう思ったのかと聞かれたら、普段の神学生の態度から推察したとしか言いようがない。

神学生がその言説を話すときの誇らしげな顔は、自分のことを褒められているというよりも、それを発信している共同体に所属している自分を誇っている気がした。

仕事で例えるなら、営業マンが自社の商品を褒められている時の顔にそっくりだった。
だからそう仮定した。

その仮定通りなら、自分の言葉を話せず他人の借り物でしか流暢に話せない神学生ということになる。
だっせ。
そりゃ私の態度も冷たくなるよ。
だってださいもん。


で、それがどうしたのって話だけど。

これが問題ありだと思う。
神「学生」とは言え良い大人。
人によっては結婚しているし、子供もいる。

そんな大人が、宗教の話とは言え何一つ自省の言葉を述べるわけでもなく、信仰しない人の欠点(?)を挙げ連ねて悦に浸るってやばくない?!!!


そんな対応を、例えで挙げた営業マンがしていたらそいつの業績は地を這っているだろう。
自省がなければ成長できないからね。


その地を這っている業績。
キリスト教界の未来ではないでしょうか?

というか現状とも言えなくもないけど……。

現代社会を生きる人間が完璧とは言わないけど、少なくとも欠点を指摘できるほど教会は偉くない。
教会を構成している私たちクリスチャンを見たらわかる。
両者にそう違いはない。

なのにそんな言説が支持されている。
つまり、そんなことも分からないほど愚鈍で、それを言えるのは教会の中だけという臆病なクリスチャンがいる。
少ないが、確かに存在している。


良くないなぁ。
私がクリスチャンを信用できなくなったらどうするんだよ!!!
まったく!!


自省するしかないし、努力するしかない

偉そうなことを言ってる私もじつは酷い。

伝道は基本やらない、面倒だし。
献金は五百円まで、おやつもそうだから。
「怠い」を理由に礼拝をサボる、礼拝に対してだけはアスリート思考だから。
コミュ障のクリスチャンに対してのやさしさが0。
世間話はできるけど気分が乗らなければ何も話さない、面倒だし。
極めつけは、結婚式には何があっても行かないが葬式には行く、なぜなら葬式は生き残ったためのもので結婚式は私のためのものじゃないからという理由で行かないほど自己中。
等など……。


はっきり言って、ひどい奴だと思う。
怠け者で、優しさを欠いていて、おまけにケチ。
しかも見栄っ張り。

ただ、私は努力と自省を欠かさない。
これにはトラウマが関係しているんだけど、その話は置いておいて。。。


所詮、私は大したことがない存在だ。
完全なる上位互換が世間に出回ってるし、替えが効く。
だからと言って、すねることはしない。
この現状は何もせずにいた結果ではなく、私が努力した結果ここまで来たんだ。

この体たらくは、私の成功体験。
だから、これからも努力と自省を欠かさない。
他責思考では辛いままだと知っているから。

だから、私は教会から他責思考を消したい。
自省と努力の果て、あるいは挫折の中に神様はいると思ってるから。

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