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『鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟』卯月妙子

彼女と知り合ってもう20年以上は経つ。

当時の知人に〈スカトロAV女優という経歴を持つ精神疾患を持った漫画家さんだよ〉という、かなりぶっ飛んだ紹介のされ方をしたのを覚えている。
「えっ…スカトロって…」とかなり引いたのは事実だが、勧められるままに彼女の著作を読んだ。

『実録企画モノ』という漫画。とにかく衝撃だった。
何が衝撃だったかというと、スカトロAV撮影の裏側を描いてあるコテコテの内容にもかかわらず、一切汚らしさを感じなかったばかりか、あまりの痛快さ、面白さにどっぷり引き込まれてしまったからだ。彼女の、比類なき読者へのサービス精神。自虐ネタなどという生易しいものではない。こんな漫画を読んだのは後にも先にもこれが初めてだった。

それから彼女の作品をすべて読んだ。
『新・家族計画』では息子さんシゲルへの愛が痛くて、ボロボロに泣いた。
そして、ボロボロになるまで読みつくし、同じ本を3冊買うハメになった。

そして彼女が当時書いていたブログを読むと、これまた頭をぶん殴られるような衝撃を受けた。
こんなに文章の巧い漫画家がいるのかと信じがたく、正直、最初はゴーストが書いているのかとすら思った。あまりに巧すぎた。あまりに私の好みに合致している文の創りだった。

以来、私はストーカーのように彼女の書くテキストを必死で追いかけ始めた。どんな短い文でも読まずにいられなかった。
彼女の書く文章には彼女独特の哲学が厳然とあり、すべてに通底する深い愛情と零れるほどの人への慈しみに溢れていた。どこか音楽的ですらあるリズム感の良さと読みやすさ。どんだけ本を読んできたんだというような語彙の豊富さとバリエーション。読めば読むほどに私は彼女の書く文章に夢中になっていった。

しかし。
彼女のあまりの饒舌さと言葉の豊饒さで、その裏側にキリキリとした叫び声があるのを、私は一切気づけなかった。本当は「漫画が描けない」ことに苦悩し、必死に手を伸ばしていたことに気づけなかったのだ。
「助けて」と言いたくて、2ちゃんねるに暴言を書きまくっていたというその心のどうしようもない孤独に、当時気づいていた人はいったいどのくらいいたのだろうか。
その孤独のつらさと痛ましさを知ったのが、この度発売された『鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟』の中でである。

この新刊は、実に構想20年、描き出し挫折してしまってから18年という歳月を経ての、満を持しての出版だ。
いや「満を持して」などという手垢のついた形容はまがりなりにもすべきではない。
『鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟』は、比喩でも大袈裟でもなく、卯月妙子という人の魂と命をガリガリと削りながら血を流して描いた作品なのである。

『精神科の閉鎖病棟』というと、"鉄格子に阻まれた暗い世界” というイメージが先行しがちだ。そしてそれを皆隠したがる。が、彼女はそのイメージすら厭わず包括する。そしてしっかりその一面ですらリアルに描き残そうとしている。
でも、すべての事象がそうであるように、人々の持つ「イメージ」が一側面を表しているに過ぎないことは、ページを読み進めるうちに綺麗に解ってくる。そこには「鬱くしき人々」がそれぞれの人生を抱えて必死に生きている姿が在る。

四半世紀ほど前の出来事を掘り起こすだけでもトラウマを刺激し、七転八倒し、描きながらパニックを起こして倒れたことも何度もあったと聞く。
18年もかかったのは、掘り起こす作業にそれだけの胆力が必要だったということの証左だ。
いや、実に。18年だ。
決して短いとは言えないこの歳月を、私たちファンはそれでも信じて待ち続けた。私は初出の漫画『EROTICS』も持っているが、その時の喜びは今でも覚えている。ああ、またこれからこの人の漫画が読める、そう思った。が、相当無理してのスタートだったということもこの本では明かされている。

前の著書『人間仮免中』は数々の賞を獲得し、統合失調症という病気を世に知らしめる、社会的にも大いに評価される傑作だった。
だが、今回の新刊は、それをも大きく上回っている。

「どんな人でも、生きていていいんだからね」
そんな声がこの本からは優しい声音をもって聞こえてくるのだ。
閉鎖病棟の、世間から言えば「異常な、異様な人々」。
けれど、みんな生きたいんだ。みんな美しいんだぞと、卯月妙子は身を削り、魂を削り、そして命をも削り、読者に伝える。

"健常"ってなんだろう。

"異常"ってなんだろう。

"精神疾患"と"身体疾患"の違いってなんだろう。

"あの人"と、"この人"と、"その人"の違いってなんだろう。

卯月妙子は、そう投げかける。問いかけ続けている。

自ら、昏倒しそうなほど強い薬を齧りながら、今も、生き抜いている。


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