パパ 愛してる

3月16日1時パパが亡くなった。来年で結婚30年だった。どこから書いたらいいのか、とにかく胆管がんになってからの事を書きます。少しずつパパとの思い出も書いていく。本当にひとりぼっちで生きていくのが辛いので書いて気持ちを整理して、新しく人生を生きていくしかない。出来るだけ早く死にたいけどそう簡単に思うようにならない。

10月頃ふとパパの顔が黄色く見えてパパに調べてもらった方がいいと助言した。いつもの主治医の所で調べてもらったがやはり数字がおかしいので済生病院に紹介してもらって検査をしたら胆管癌で入院。抗がん剤しか治療できない。ステージ2と言われた。ただ先生は自信なさげに見えた。ネットで大阪がんセンターを見つけセカンドオピニオンを聴きに。抗がん剤で小さくなれば手術も可能だと。
私たちは転院を選んだ。これが良くなかった。約1か月何も処置してもらえなかった。
大阪がんセンターで1月末に抗がん剤。しかし2回目は無理だった。つまりもう
だめということ。緩和ケアにした方がいいと言われ。2月の末に退院した。
毎日看護訪問の看護士さんが来て1か月に2度訪問医者が来てくれ、ケアマネージャーが介護機器の会社に連絡してもらいベッドや手すり、ポータブルトイレなどを紹介してくれた。
私はまず1週間有休で(介護休暇の申請はしてくれなかった)パパの世話。
ご飯も味がおかしいとあまり食べてくれない。欲しいと言ったらあちこち探し回って見つける。ベットからずれたら手を引っ張ってあげる、だるいと言われたらマッサージ、お風呂は入れないので身体をふく。大変だけど新婚のように嬉しかった。
休暇が終わりどうしようと思ったけど、パパにもう1週間そばにいて欲しいと言われ会社んい電話。自分の有休なので喜んで許してくれた。
夜中に吐いて酷い状態になり訪問看護の人に駆けつけてもらった。
最後の頃はアイス、イチゴぐらいでお粥も食べてくれなくなった。
ケアマネさんの紹介で部屋で風呂に入れてもらった。入院してから初めてのお風呂。本当に嬉しかったようだ。
しかし血圧が下がり酷くなり覆水もとったので状態は悪い。酸素も最後は500、これ以上はなのもできない。そして1時死んでしまった。レッドチェッペリンの「天国の階段」をかけた。看護士さんのお手伝いでいつもの服とアントラーズのユニとタオマフをつけた。最後まで酸素のチューブを悲しそうに私をみて引っ張る。本当に最後まで生きようとしていた。73歳で普段は高血圧ぐらいしかなかったしほとんど病気なしでのほほんと生きていたのに。慰めは最後自分の部屋で側に入れたこと。早く死にたい、本当に側にいたい。

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