見出し画像

~1000の好きな短歌top10と自己紹介

好きな歌top10

こんにちは。~1000です。
早速好きな短歌top10を発表します!
有名な歌ばかりで申し訳ないです;;


1位
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ

佐クマサトシ「標準時」

この歌です。
あんまりこの歌を一位にする人はいないんじゃないかなと思うのですが、個人的には割と圧倒的です。
初めてこの歌を見たときに、こんなに崇高な、他の31音のから隔絶された日本語は存在しえないのではって思ってしまったんですよね。
この一首は、ほとんど論理学の例文のような歌で、意味内容や主体の人生が背後に透けるなんてことは全くない。この全くなさに憧れます。この歌をまねして全く情報がないことを自分でも試みたのですが、出来ないです。

以下は読み飛ばして大丈夫です。
(自分が思う佐クマさんの歌のすごさは、たとえば、連作を読めばわかるのですが、”工場でライン生産されているものを鞄の中に詰め込む”、という歌の”工場でライン生産されている”には産業革命以降のモノづくりの在り方やライン生産で働く労働者の無個性・搾取などについての批評的なまなざしでは全くないんですよね。この類の付加情報は、例えば「ボールペンで手紙を書いた」という文の”ボールペン”が、鉛筆/ボールペンの違い(なぜボールペンでなければならないか)を言いたいから書いたわけでは全くないように、「別にその情報は必要ないけれどまあなんとなく付け加えた」程度の温度感を保っている、それをみんなが自己表現したい短歌で行うという凄さだと思います。そしてそうでありつつも、”工場でライン生産されている”、という記述にはそれ自体でなんとなく短歌が成立してしまえる程度の引っ掛かりがあるから僕は楽しいわけです。このことは”クリスマス・ソング”についても言えると思います。)


2位
偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう

松木秀「5メートルほどの果てしなさ」

痺れるほどにかっこいいです。
僕はこの歌を山田航さんの「桜前線開花宣言」で初めて発見して、この本によると”二〇〇一年にアフガニスタンのバーミヤン渓谷で起きたタリバンの仏像破壊事件に題をとった時事詠である”らしいです。
空洞のキャラクターって一番怖ろしくないですか。しかもそれが巨大な仏像の空洞ですし、実際の写真を見るとより怖いです。俳句だと、
”半円をかきおそろしくなりぬ”
/阿部青鞋「火門集」、が近い感覚で好きです。
そして僕は大きい生物が登場する短歌が好きで自分でもよくモチーフにするのですが、それをフィクションなしで作り上げたのも良いですね。
しかも偶像・空洞・偶像で韻を踏んでいるので口に出しやすい。


3位
男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる

平井弘「前線」

何度読んでも怖いです。
なぜならばこの”ぼく”が読者の理解を超えた他者として存在しているからです。
国文社の現代歌人文庫平井弘歌集の後ろに「短歌における他者の復権」「他者をめぐる試論的展望(抄)」という平井弘が書いた評論があって、前者では<仮説>という同人から短歌を引用し、それらの短歌では他者を疎外している、他者の利己性を描けていないと述べている。つまり、他者を描く際に「この人はこの時こういう感情になるだろう」というあたりをつけて描いている。そのような方法では自分の理解の枠組みを超えるような他者像を描くことはできない。
後者の評論で平井弘が、清原日出夫の”不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌”を肯定して、”従きて来る警官を罵りつづく一人その単純に疲れて歩む”を良しとしていないことが分かりやすいと思う。前者には後者にはない他者への驚愕があります。


4位
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね

東直子「青卵」

あやふやな記憶で申し訳ないのですが、この歌は穂村さんなどが参加した合宿の歌会における題詠「ママン」で作られた歌だった気がします。「ママン」はカミュの「異邦人」由来の題だったはずです。
「ママン」がもたらすオーラが白眉ですよね。この「ママン」が歌の核でほかの要素はその雰囲気を邪魔しない役割のように感じます。
初めてこの歌を読んだときに、一瞬で僕を遠い世界へ連れてってくれたんですよね。その恩でいまだにこの歌が大好きです。


5位
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

塚本邦雄「日本人霊歌」

僕が最も影響を受けた歌人は間違いなく塚本邦雄です。
一番かっこいい歌を作ると思っていて、僕にとって短歌を作ることは塚本邦雄みたいな短歌を作ることと殆ど重なります。(あまり上手く真似できていないのですが)
塚本の短歌だと同率で30首くらいあるのですが今回あえてこの歌を選んだ理由は、皇帝ペンギンがキュートだからです。いわゆる皇帝ペンギン=天皇説などの塚本十八番の喩法に加えて皇帝ペンギンというキュートな動物を詠みこむというデフォルメ化が、この歌がまるで「シンジケート」の時代に作られたように僕を錯覚させるので、「日本人霊歌」刊行時の1958年の想像力の限界を突破したような気がして僕はつくづくすごいなあと思います。


6位
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

中澤系「uta0001.txt」

「uta0001.txt」は一番最初に買った歌集で、短歌を作り始めたころは中澤系のような、特に”駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに”のように社会を皮肉る歌ばかり考えていました。
この歌の恐怖ポイントは二つあって、一つ目は、社会がそのシステムのうちに理解できない人すらも想定しているという恐怖。二つ目は、急にシステムが喋りだしたという恐怖。
いまはもうこの歌のような、システムの言葉の引用を一部だけ変えたような技法、それにより不気味な主体を編み出すというのは佐クマサトシなどでもよく見かけるようになったのですが、初めてこの歌を見た時からしばらく自分の中で一位の歌でした。


7位
膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番すばらしい俺

工藤吉生「世界で一番すばらしい俺」

短歌を始めてすぐのころにこの歌に出会って打ちのめされた記憶があります。私的に大事な歌です。別にいじめられたことがあるわけではないのですが、集団にうまくなじめない時期が続いていまだに人がたくさんいる食堂でご飯を食べられないです、自分と関係のない笑い声が苦しくて。そういうのと自分以上に戦っている人がいると教えてくれた歌でした。


8位
冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

中城ふみ子「乳房喪失」

最初の方に挙げた歌は初読時に自分の世界を揺るがされたような衝撃を与えてくれた歌なのですが何回も読むことでそれは薄れていきます。しかしこの歌は読むたびに何度でもすごいなと思わせてくれるタイプの歌です。下の句の境地もさることながら、上の句の「冬の皺」が厳しい人生の暗喩でもあり、弱っていく自分の体の皮膚をも表現していたのではないかと思うのです。


9位
樹のなかに馬の時間があるような紅葉するとき嘶くような

大森静佳「カミーユ」

「カミーユ」という歌集の恐ろしさ。美しさの土俵で勝負したらだれが勝てるんだと思ってしまいます。北原白秋位からの幻想系の歌人たちすべての集大成のように読んでいて思います。
澁澤龍彦がかつて第一回幻想文学新人賞の講評で
「夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じ込んでいる人が多いようだ。もっと幾何学的精神を! と私はいいたい。明確な線や輪郭で、細部をくっきり描かなければ幻想にはならないのだということを知ってほしい。」
と述べていて、大森の歌はまさに幾何学的、ある整合性のもとに成り立っていると思います。つまり、幻想ではあるが根拠があるのです。
10位に挙げた歌も、樹→馬 ⟺ 紅葉→嘶く、という関係が厳密に保存されています。カミーユのほかも歌も、
”羊水はこの世かこの世の外なのか月の匂いがひどく酸っぱい”
羊水は、母親や周りの人々にとってはこの世に存在する物質だが、これから誕生する赤子にとってはまだ自分がいない世界の物質=この世の外、というある種の数学的思考が根底にあると思います。


10位
アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました

斉藤斎藤「渡辺のわたし」

この歌が好きな理由は3位の歌の理由にある意味近くて他者を描けているからです、ただし存在しえない他者ですが。
この文章は日本語なので主体はおそらく日本人ですが、日本人でアメリカのイラク戦争に賛成する(ましてやそれを表明する)ことは不可能だと思います。
僕が感動したのは、不可能な文が存在しているという奇跡です。
これは露悪的な逆張りではありません。”こころのじゅんびが今、できました”という表記からこの主体がどこまでも空虚で悪趣味的な思考を持ち合わせる器でないことが分かるからです。
この歌と、”紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき”/大辻隆弘「デプス」と比較しても面白いです。こちらの歌にはそのように思っている主体が確かに存在するの分かります。


自分のtop10はこんな感じです、皆さんと被った歌はありましたでしょうか。
自分は社会的なテーマを取り扱った歌をかっこいいと思う傾向があります。しかし単にかっこいいと思うだけで何も行動に移していないのが本当に恥ずかしいです。だからと言ってそのような主題を避けるのも現実逃避に過ぎないので、迷いながら歌を作っています。
少し前に粘菌歌会という場の題詠「龍・ドラゴン」で自分の歌が二首選ばれました。

故郷を龍の火球で失った世代への切り込んだ質問
龍という自己認識の集団が繋ぐラーメン店の行列

~1000

一首目は歌会の講評でもあった通り、ある出来事の被害者団体が高齢化して、そこにとある若者が質問するという場を想定しており、このような若者に自分は慣れないのですがどこか憧れがあって歌にしました。二首目も、特殊な自己認識の人々の連帯が背景にあります。
このような歌を作りつつも現実の自分が全く追い付いていないことへの説明を放棄したいという願望が筆名の~1000に反映している気がして、います。つまり特定の人物かのような名前はその名前で一人前の人間として扱われて歌に責任を負う。しかし、自分はふざけたような名前であることによって読む人にこいつはふざけているんだと思ってほしいのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?