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石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(6)―樋口一葉と谷崎周辺(その2) 中島歌子

今回は、中島歌子について書いてみたいと思います。前回の和田重雄と併せて『春琴抄』との関連が見えてきます。
和田重雄が病床から樋口則義となつ宛に出した手紙が引用されており、その最後は、
和田重雄拝
樋口様
お夏様
となっています。


和田重雄から中島歌子へ

和田重雄から中島歌子への流れについて、一葉日記から次のような引用があります。

 それより十五まで、家事の手伝ひ、裁縫の稽古、とかく年月を送りぬ。されども猶、夜ごと〳〵文机にむかふ事を捨てず。父君も又我が為とて、歌集など買ひあたへたまひけるが、終に萬障を捨てゝ更に学につかしめんとし給ひき。其頃、遠田澄庵、父君と心安く出入しつるままに、此事かたりて、師は誰をか撰ばんとの給ひけるに、何の歌子とかや、娘の師にて、年ごろ相しりたるがあり、此人こそとすゝめけるに、さらばとて其人をたのまんとす。苗字もしらず、宿処をも知らざりしかば、萩野君にたのみて尋ねけるに、そは下田の事なるべし、當時婦女の学者は、彼の人を置て他にあるまじとて、かしこに周旋されき。然るに下田ぬしは、當時華族女学校の学監として寸暇なく、内弟子としては取りがたし、学校へ参らせ給はゞとの答なりけれど、我がやうなる貧困なる身が、貴紳のむれに入なんも侘しとしてはたさず。兎角日を送りて,或時さらに遠田に其はなしをなしたるに、我が歌子と呼ぶは下田の事ならず、中島とて家は小石川なり、和歌は景樹がおもかげをしたひ、書は千蔭が流れをくめり、おなじ歌子といふめれど、下田は小川のながれにして、中島は泉のもとなるべし、入学のことは我れ取はからはんに、何事の猶豫をかしたまふとて、せちにすゝむ。はじめて堂にのぼりしは、明治十九年の八月二十日成りき。

「我が歌子と呼ぶは下田の事ならず、中島とて家は小石川なり、和歌は景樹がおもかげをしたひ、書は千蔭が流れをくめり、おなじ歌子といふめれど、下田は小川のながれにして、中島は泉のもとなるべし、」というところが印象に残ります。
確かに当時「歌子」といえばそれは「下田では」(下田歌子のこと)と言われますよね。
小石川ということで徳川慶喜家との繋がりも考えられます。
また、一葉が中島歌子の「萩乃舎」に入塾したのが明治十九年八月二十日。谷崎が生まれた1か月後ということがわかります。

中島歌子の来歴と旅宿池田屋

ここから中島歌子の「萩乃舎」についてかなりの頁数が割かれます。
中島歌子は弘化元年十二月十四日に、亡父の故郷、武州入間郡森戸村で出生し、少女期までの歌子の経歴は、鈴木孝次郎口述の「歌子伝」(明治二十五年四月二十五日読売新聞掲載)から次のように引用されています。

 襁褓の頃父母に随て江戸に出で教を家庭に受け、稍や長じて中村某(故敬宇の父)の門に入らしむ。父翁は磊落にして交広く水藩の藤田、戸田等は隔てぬ知己たるにより、歌子を託して松平播磨守(水戸の分家)の奥へ仕へしむ。歌子此時十歳なりしも忠勤同輩に抜んで君の殊遇を受けて十五歳に及びたる。

また、その後のことについて小石川牛天神境内の歌子碑撰文(撰文ならびに書は三宅花圃の父田辺太一)から次のように引用されています(原文は漢文)。

 萩園女史名ハ中島氏、江戸ノ人、十八ニシテ水戸藩士林忠左衛門君ニ嫁ス。君ハ勤王ヲ主張シテ敵党ノ戕ス所ト為リ、女史モ亦夫ノ妹ト藩獄ニ繋ガル。幾モ無ク免ヲ得テ還ヲ遂グ。其家或ハ其ノ年少ニシテ子無キヲ以テ勧ムルニ再嫁ヲ以テス。女子毅然トシテ之ヲ斥ケ、老親ヲ侍養シ寡ヲ守ル多年、人其ノ孝貞ヲ称ス。女史夙ニ和歌ヲ嗜ミ、加藤千浪ニ学ンデ之ガ高足ト為ル。維新之初メ風雅ノ道微ルヤ、女史襄ヲ起シ後進ノ誘導ニ力ムルヲ任ト為ス。王公之貴亦門下ニ執リ仰ギテ宗師ト為ス。會寒疾ヲ得、漸ク激変シテ肺炎ト成ル、事聞エテ従七位ヲ授ケラル蓋シ異教為リ、終ニ癒セズ明治三十六年一月三十日没シ寿ヲ得ルコト六十。

一方、馬場胡蝶は「樋口一葉女史について」で次のように書いています。

 中島歌子と云ふ人は千蔭流の歌を学んだ人で、聞く所に依れば随分微賤から身を起こした人であつた。従つて気品もなければ、学問もなかつた。何でも籠屋とか車屋の娘であつたと云ふが、砲兵工廠の前側の商人の娘であつたらしい。

さらに、これも風聞だろうがと、次のように続きます。

中島歌子の両親が郷里から江戸へ出て、小石川の旅宿池田屋の夫婦養子に入りこむまでの経過は、ただ日本橋北鞘町に住んでいたというのみでよく判らず、したがって歌子の子供時分のことも不明だが、ともかく水戸藩士の林忠左衛門に嫁してから詠んだ和歌が相当数あるのだから、娘のころ御殿奉公にでも上がって、そうした素養をひととおりは身につけていたと考えられる。林忠左衛門は水戸の藩士というよりも勤王浪士で、当時藩の上屋敷にほど近かった伝通院前の百姓宿池田屋を根城としてしばしば出入するうちに、旅宿の娘だった歌子ともねんごろになったという。(この結婚は正式のものではなかつたともいわれる。)
歌子が林氏に嫁した年齢も、歌碑撰文では十八歳、一葉日記では十九歳(一葉日記 二五・三・二四)となっており、一八なら文久元年、一九なら文久二年となり、夫の忠左衛門は元治元年の武田耕雲斎の筑波山挙兵に呼応して、同年八月二十一日の部田野原の戦いに負傷して捕われ、翌年の正月に獄中で死んだとされている。そのとき歌子も連坐して入獄したが、まもなく許され江戸に戻ると、実家の池田屋に身をよせ、かねてより好んでいた歌道に精進すべく加藤千浪の門に入ったというから、結局彼女の結婚生活は三年ないし四年の短期間で、慶応年間の二十二、三歳ごろはすでに実家へ帰っていたわけである。

見事なまでにこれまでに見てきた谷崎家周辺の人脈です。
さらに実家の池田屋についても資料を基に詳しく書かれ、こうした状態で、池田屋は歌子の兄の加藤利右衛門が家を再建築し(池田屋という名目のみで実際は廃業したかもしれぬ)、妹の歌子はそのわきにささやかな手跡指南の家塾を開いたのが萩乃舎の出発だったと考えられ、この時分の事情を旧小石川区役所の除籍簿で求めると、と次のように記載されていると書かれます。

小石川水道町拾四番屋敷居住
雑業    第一戸
手跡指南
父同町加藤利右衛門亡長女
亡父実家武州入間郡森戸村農中島万八名跡相続

明治十年十月十八日錯誤解明願済 中嶋 登世(抹消)
うた
壬申年三十
弘化元年十二月十四日生
後見
同町百姓宿 加藤利右衛門

さらに、明治十一年に出版された区分町鑑「東京地主案内」の「小石川水道町」の部から次のように引用され、池田屋の利右衛門の地所よりも中島トセの地所の方が三十三坪大きいことから、庇を貸して母屋を取られたというべきか、池田屋が衰える半面に歌子の塾が勢いに乗り始めていたのであろう。初めは手跡指南の塾として開業したが、世情が落ちついて、和歌が上流婦女の教養として流行するにつれ、歌子も書塾から歌塾へと看板を換えていったのである。と続いています。

十四番  七十七坪  中島 トセ
十五番  四十四坪  加藤利右衛門

師匠加藤千浪(号・萩園)の死の当日、名前を受け継ぎ手跡指南として萩乃舎開業

師匠の加藤千浪は陸奥の人で、江戸に出て村田春海の門人岸本由豆流について歌と書を学び、号を萩園と称しました。この師匠の死に際して名称を中島とせが相続して、師の雅号をそのまま歌塾の名「萩乃舎」にし、併せて「とせ」を「うた」と改名したものに違いないと著者は次のように推定しています。

なぜなら前出の戸籍面の「明治十年十月十八日錯誤改名願済」とある日付は、まさに加藤千浪の死んだ当日に合致している。

加藤千浪加藤千蔭の流れを汲む桂園派であり、その歌風は宮中和歌の主流ともなったから、それにより中島歌子の萩乃舎も御歌所歌人の後援をうけるに至ったことに続き、『小中村清矩日記』に登場する人物の名前がずらりと並んでいくことになります。山本秋広著『維新前夜の水戸藩』には林忠左衛門と中島歌子が取り上げられており、若き日の佐佐木信綱も紺絣姿で教わりに来たことが書かれています。これで完全に繋がりました。興味深いことに、著者は新宮市生まれなのですね! そして萩乃舎は上流婦人たちのサロン的空気を醸し、逐次的に舎屋を建て増していった模様に続き、歌子の人となりにかんばしからぬ噂もささやかれて、門人の中にも不信が生まれた様子が『一葉日記』から引用されています。

田中君帰宅を待てかたる。伊東のぶ子君も折ふし来訪。談は中島の師が上なり。品行日々にみだれて、吝いよいよ甚敷、歌道に尽すこゝろは塵ほども見えざるに、弟子のふえなんことをこれ求めて、我れ身しりぞきてより、新来の弟子二十人にあまりぬ。よ七める歌はと問へば、こぞの稽古納めに、歌合したる十中の八九は、手にはとゝのはず、語格みだれて、歌といふべき風情はなし。坐に他の大人なかりしこそよけれ。なげかはしきおとろへ方と聞ゆ。(ちりの中 二七・二・二七)

萩乃舎の繁盛とともに兄との仲も怪しくなった様子が『一葉日記』に書かれます。

師君財政いと困難なるよし物語られし也。我が、よもさる事は侍らじ。口に山海のちん味を味はひ、身には綾羅をかざり給ふともただいさゝかなる身一つなるを、といひしに、否な我が上には何ほどの事かあらむ。兄の必死と困難の折に落入て、此春よりこれをすくはんが為に、いくばくの苦労をかなしにけん。されどもいささかのしるしも見えず。いまだに何事のもとゐも立たず、などものがたらる。

春琴も魚鳥を好み、とはいえ独身であればいくら贅沢といっても限度があり美衣美食を恣にしてもたかが知れているがと書かれていますね。

この後歌子は後継者を得るために次々に養子を迎えますがうまくいかず、ついに亡くなるまでに後継者が決まることはありませんでした。

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