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朝の日記「クズ」

 昨日の散歩道へ、今日も行こうと思ったのは、クズの花を見るためだ。

 クズ、という植物の名を、私は昔から知っていた。けれど、どんなものかまではわからなかったのだ。


 いつものように、のんびりと散歩を楽しんでいると、山道の沿道に藤が逆さになったような紫の花が見えた。それも、赤紫やら青紫やら、様々な色調の花びらがついていてなんとも美しい。その花びらが地面に散って、ちょっとした花の絨毯を作っていた。

 ほう、と思い近くに咲いていた花を、スマートフォンで撮影する。最新の技術はそれだけで、花の名を教えてくれた。これこそが、クズなのだと。

 昨日はその感動だけを胸に家へと帰ってしまったから、今日はもう一度、じっくり見ておきたいと思った。

 絨毯に差し掛かると、一晩経って花は随分と色褪せていた。一日だけの魔法だったか、と残念に思いながら、見上げる。

 普通、道いっぱいに絨毯が広がるなら、花びらは上から降ってきたはずだ。それも真上から、こんこんと。そのためには、道の上に花のアーチができているに違いなく、どれほど美しいかと期待したのだ。

 ところが、杉の木が両端に立っているばかりで、空がしっかりと見える。疑問に思ったのは一瞬で、すぐに私は理解した。少し高いところで草刈りが行われたのだ。その証拠に、沿道の隅には枯れかけた葉が無数に落ち積もっていた。そう、まるでクズの花のように褪せたのが。

 ああ。私は気付いた。

 クズを刈り払ったから、花が道路に散った。私はそれを見て喜んでいた、というわけだ。まるで、死体から散った血飛沫でも美しいというように。



 思えばこの、夏と秋の混ざり合う季節には、無数の死が転がっている。

 散歩をしていれば毎日必ず、死体と出会うものだ。それは例えば地面に落ちて腹を見せているセミであったり、あるいはまるで停まって休んでいるかのようなトンボであったり。

 そういえば、昨日、家を出たら、アシダカ蜘蛛がスズメバチに殺されて、ボトリと地面に落ちる瞬間も見た。アシダカ蜘蛛の死体はいつまでもつぶらな目をこちらに向けていて、私の心をざわつかせる。

 弱肉強食、という言葉が有るけれど、あれを私は「弱いものは早く肉になり、強いものもいずれは食べられる」だと思っている。

 仮に天寿を全うできたものが最も強いとしても、死んで肉になってしまえば何かに食べられるものだ。虫であれ、菌であれ。そういう意味ではミイラなどは最も強い生き物になるかもしれないが……ここではこれ以上考えるのはやめる。

 ではクズが弱者で、刈り払った人間は強者なのだろうか。私は逆だと思う。一時的には血潮を散らして、姿を消したとしても、彼らの根や種は残り続ける。きっとすぐ新芽を出し、また来年には花を咲かせるに違いない。それを人が刈り払う。

 堂々巡りの勝者は、恐らくクズだ。こんな寒村では特に。近いうちに、道を覆いつくすクズのことなど誰も気にしなくなるだろう。いや、気にするはずの人間がいなくなるのだ。

 しかしそんなクズだって、30億年ぐらいすれば消えるのだろうし……。宇宙のことを考えると憂鬱になる。


 そうこうしているうちには、帰宅していた。

「おかえり、梨でも食べるか」

 祖父が出迎えて微笑む。私はそれに曖昧に笑んで頷いた。

 祖父も、この家も、私も、また。



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