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神秘体験をする方法6

「全部を産んだのはお前じゃないか」

それまで、私はこの声を
自分で言っているようでありながら、
外から聞いてるような感覚でした。

それまでの私は、
「全部」とか
「お前」とかが存在する世界にいたのです。

すると、急に
ぽん!というような弾ける音がして、
パカっと別の世界にいる気がしました。

言葉でうまく言えないのですが、
聞くと話すが同時に存在し、
触ると触られる感じがする。

誰かが話してるのに、それを聞いているのに、
自分が話してる
リアルな感覚がある。
それを話しているのは絶対に自分なのに、
聞いているのも絶対に自分。

何が起きているのかがわかりませんでした。

どこまでが自分で、どこからが自分なのか、
まったくわからなくなったのです。

よく全てに目があるみたいな
目がシンボルになるような
ものがありますよね。

↑こういうフリーメーソンのマークとか


↑こうしたチベット仏教のとか


↑こんなエジプトのものとか

これらが、どういう気持ちで書かれたものかはわからないのですが、
全部が自分という感覚は、

目が100個あるような感じといいますか、、

でも、
目が100個っていうのも違うんです。
100個とかって、分けられたものでもないんです。

目は一つなんです。

だけれども、同時に360度、目なのです。

なんといいますか、
目のところに全てがある感じというか。。。


壁なのに、それが自分の目な気がする。
手なのに、それが自分の目な気がする。

簡単に言えば、
堺がないのです。

でも堺がないとか、

とてもそんな陳腐なものではないのです。

でも簡単に言えば堺がない。
それ以外に表現できる言葉がありません。

そして
全てが凝縮して「ここ」にある。

空間というものがなく、
時間もなく、
こことか、あそこ、もなく、
宇宙とか地球とかもなく、
全部が、
堺というものがなく、

本当に、全部が自分だったのです。

切り刻まれて細分化したキリストが、
全ての偏在するように仕組んだ、
その前の前の前の前の、

その元は、
ただの一つのものだったのです。

これは、
言葉で書いても、
たぶん伝わらないと感じます。

それは、
砂糖を食べたことがない方に、
その甘さを、
伝えることができないように

言葉で伝えることが無理なものが
この世にある。

体験とはそういうものですね。

この体験のあと、

私は、また別の変な体験をするようになりました。

つづく

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