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実家に戻って10日目に母は川を渡った


うだるような暑さが続く8月、珍しく涼しい風が吹く13日の夕方、玄関の外階段に腰掛けて近所のスーパーで買った麻がらに火をつけた。

大学入学と同時に地元を離れた私が実家に戻ることを決めたのは27歳の秋。母が数度目の入院をしたと聞いた時だった。
母は長く心臓を患っていた。記憶にある頃から定期的に通院をし、薬を飲んでいる母の姿が私にとっては当たり前だった。人よりも体が弱いけれどそれでもその日はまだ大分先なのだろうと思っていた。しかし、心臓にICDを入れると聞きその日が現実味を帯びてようやく、母の側でもう一度暮らしたいと願った。

まだ母が元気なうちに。まだ私と一緒に出かけてくれるまで。私が次の職を見つけるまでのたった一年。
きっと早くて数年後か遅くとも十数年後に来るであろうその日を迎える時に後悔のないように。
だってまだ何の心の準備も出来ていないのだから。

そんなものは全て幻想で、
実家に帰って10日目の夜に母はこの世を去った。

父と3人で映画を見に行った日だった。
医者は心臓が限界を迎えていたと言った。ICDは何度も何度も作動していたが、それを上回る程に母の心臓は発作を起こしていたらしい。
最後は決して綺麗なものではなかったと思う。
救急車に乗せられて、握った母の手が冷たかった時、歯切れの悪い医者の説明を聞いた時、本当はもう無理なんだとわかっていた。
それでも母が可哀想なくらい延命治療を続けてしまったのは、私のエゴだったと思う。
私と同じように長い間実家を離れていた兄が病院に着くまで、家族が揃うまで死亡宣告は聞きたくなかった。
父と医者には、最期にずっと会えていなかった兄に会いたいと思うと無理を言って待ってもらったけど、本当はもう二度と来ない家族一緒の時間を少しでもいいから過ごしたかっただけ。
沢山の管に繋がれた母はきっと辛く苦しかったはず。

わがままを言ってごめんない。


百箇日を過ぎてもなお、母はいつかふらっと帰ってくるんじゃないかと信じてしまう。
昼近くまでベッドの上にいる私に、まだ起きないの?と呆れた声色で話しかけてくれるんじゃないかと思う。いつものように私の誕生日におめでとうとLINEをくれるんじゃないかと思う。
私が最後に送ったメッセージにはいつまでも既読がつかないまま。

最後に母と過ごした10日間は、今思い返せば信じられない程穏やかで陽だまりのようだった。
久しぶりに家族3人で囲む食卓も、外出する母の少しはねた毛先を整えてあげたことも、隣に母を乗せて走った夜の田舎道も、荷物持ちで着いて行った道の駅で一緒にソフトクリームを食べようとしたら販売終了していたことも、その後スーパーでアイスを買ったことも全部。
映画を見る前にお昼ご飯を食べに寄った焼肉屋でアイスを食べた後、温かいお茶を頼んで、湯呑みに両手を添えてあったかいねと笑っていた母の顔を私はずっと忘れない。

リビングに置いてあった母の手帳は5月までびっしりと予定や仕事のメモで埋まっていた。翌月から途端に真っ白になったページの中で、一ヶ所だけ予定が入っていたのは凄く楽しみにしていた母の大好きなアーティストのライブの日。
数年前からずっと行きたいと言っていて、私と行くはずだったライブの日。
その人に会うために体力を付けなきゃと買ったリハビリの本は読まれることなくリビングに置いてある。

実写版シンデレラを一緒に見ていて、母は途中で眠くなり続きは後で見ようねと言った。
私が面白いと勧めたドラマも時間がある時に見ようと話していた。
地元に新しく出来た旅館に泊まりたいねと予定を立て始めていた。
料理が得意ではない私に、家にいるうちに教えなきゃねと言った。
そのどれもがもう一生叶わないまま、多くの後悔と共に私の心の奥底に残り続ける。

もっと早くに仕事を辞めて家に帰れば良かった。
もっと意味のない連絡を沢山すれば良かった。
年に1、2回じゃなくてもっと沢山帰れば良かった。
もっと面倒くさいお願いをちゃんと聞いてあげれば良かった。
恥ずかしがらずに自分の気持ちを素直に伝えれば良かった。

地元で再就職したいからじゃなくて、本当はお母さんとまた一緒に暮らしたくて帰ってきたんだよって言えば良かった。


今夜、母は家に帰ってきているのだろうか、
帰ってきたなら、どうか教えて欲しい。
どうか夢に出てきて欲しい。
そうしたらもう恥ずかしがらずに伝えるから。


夢でもいいから会いたいよ。
お母さん。
お父さんだけじゃなくて、私の夢にも会いにきて。






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