知識の詰まった脳味噌を吸われることについて僕が考えたこと──村上春樹「図書館奇譚」から

 2018年、村上春樹が自筆原稿や蔵書、レコードコレクションなどを母校の早稲田大学に寄贈、これを受けた早稲田大学は国内外の文学研究者がこれらの資料を活用できる「国際文学館(村上春樹ライブラリー)」の設立を目指す、という報道を目にしたとき、30年来村上作品を愛読してきた一読者として、それはにわかには信じがたい、なにかの悪い冗談なのではないかと、そのニュースソースの信頼性への疑問を含め、つよい衝撃を受けたのを覚えている。

 村上といえば、日本文学の主流であった血や土地との縁にからめとられた私小説を主とするいわゆる「純文学」へのカウンターとして、主人公の抱える喪失を洗練されたドライな文体でもって描いてきた、現代日本文学史においてとてもユニークな作家のひとりだ。村上作品では土着性からの解放のひとつの方法として、初期から中期にかけては(まだ作家が存命のため、こうした区切りが正しいのかどうかはともかく)登場人物たちから家父長制を象徴する氏名を排除し、「鼠」や「キキ」といったあだ名=記号のみを付与することで「家族」という係累を断ち切っている。

 なにより村上自身が、これまでの作家活動において既成文壇から距離を置くことによって、「文学」がはらむ権威(そのようなものが果たして存在するのかはさておき)といったものとは無縁であろうとしていたと信じて疑わなかったから、まさか村上が自らの名前を冠した施設の建設に積極的に関わるなんて(しかも生きているあいだに!)、長年の読者である自分にとって青天の霹靂以外の何ものでもなかったのだ。──ごく控えめに表現して。

 そして2021年10月1日、早稲田キャンパス構内にある旧4号館(報道に際しては「隣接する坪内博士記念演劇博物館には学生時代に足繁く通った」という村上のコメントが付されることになる)を改修して「村上春樹ライブラリー」は華々しく公開された。村上作品のもつ「トンネルのなかに深く潜っていくような」イメージをあらわしたという流線型のひさしを持つファサードや、おおきくとられた吹き抜けの空間、階段の両側に設置された巨大な本棚、作家の書斎やオーディオルームを再現した部屋など、隈研吾の手によって手際よくモダンでゴージャスにまとめられた建物はインターネットのニュースサイトをはじめ、テレビや新聞、雑誌でこぞって紹介され、この大規模改修工事にかかったおよそ12億円の費用が、株式会社ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長である柳井正の寄付でまかなわれた、ということとあわせ、村上ファン以外の耳目も集めることとなった。ノーベル文学賞発表の時期がくるたび、その受賞の可能性をゴシップ的にかき立てるマスコミと熱狂的な一部ファンの様子を鼻白む思いで眺めていたのだが、「村上春樹ライブラリー」をめぐって、これまでのスタイルを翻すかのように作家本人がお祭り騒ぎに加担するのは、あるいは村上のいう「デタッチメントからコミットメントへ」に対するひとつの具体的行動なのかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにせよ、自分からすすんでこのスノッブな施設に足を運ぶことはないと思う。

 さておき、図書館や図書室はこれまで『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『海辺のカフカ』、「土の中の彼女の小さな犬」といった作品に登場し、村上作品を読解する重要なキーのひとつである。なかでも「図書館奇譚」はそのタイトルが示すとおり、図書館を舞台に描かれた短編であるというだけではなく、以下の4つのバージョンを持つユニークな作品である。

  1. PR誌『トレフル』に連載ののち『カンガルー日和』(平凡社、1983年、講談社文庫、1986年に収録されたもの

  2. 佐々木マキとの子ども向け企画『ふしぎな図書館』(講談社、2005年、のち講談社文庫、2008年)のためにリライトされたもの

  3. 『村上春樹全作品1979〜1989』(講談社、1991年)に収録のもの

  4. ドイツのデュモン社から発行された『Die unheimliche Bibliothek』(2013年)の日本語版(『図書館奇譚』、新潮社、2014年)。テキストは1.に手を入れたもの

 文庫化にあたり、単行本のテキストに手が加えられることはそうめずらしいことではないとはいえ、4つの異なるバージョンを持つ作品となると話は別だ。村上は4.(新潮社版『図書館奇譚』)のあとがきで「図書館奇譚」がたどった紆余曲折の理由ついて、つぎのように記している。

どうしてこんなに何度も書き直したのか、と尋ねられても困る。そういう機会がたまたま何度も与えられて、そのたびに「せっかくだから」と思って書き直したということなのだろう。本当にキャリアの初期に書いたものなので、書き直す余地がたくさんあったということもある。後期の作品はそれなりに密に書き込んであるので、なかなか簡単には手を入れにくい。下手に手を入れるとバランスが狂ってしまうことがある。その点、初期の作品は風通しが良いので、手を入れやすい。そういうのは、作者としてはなかなか楽しい作業でもある。文献的にはかなり面倒なことになるかもしれないが。

村上春樹『図書館奇譚』(新潮社、2014年)

 つまり作家として未成熟なキャリア初期に書かれたがゆえに「図書館奇譚」には風通しの良さ=文章的な隙があり、あらたな形での発行の機会があるたびにその隙を埋めるための修正を加えた、ということになるが、もちろん村上の言葉を字義通りに受けとめることはできないだろう。村上は「図書館奇譚」が「デザイナーやイラストレーターの創作意欲をそそるらしく」、凝りに凝ったデザインで発行されているという各国語版について言及し、「もしできれば読み比べて(見比べて)いただきたいと思う。きっと「同じ文章の内容で、これほどまでに違うものか」と、驚嘆されるに違ない」とつづけるが、4回もの改稿がなされた理由は、その回数からいってもただ文章表現に細かな修正を行うためというより、むしろ本作が作者である村上自身の創作意欲をそそる何かを持っていたことに起因するあらたに開かれたリライトの欲求によるものだったのではないか。図書館は村上にとって作品の重要なモチーフのひとつであり、これまでも複数の作品で何度も描かれてきたのは前述したとおりである。作品のボリュームが改稿に適していたということもあろうが、村上の好む図書館というモチーフとともに、「図書館奇譚」には村上春樹という小説家の創作行為を考察するうえで重要な手がかりが隠されているのかもしれない。紙幅の都合もあり、本稿ではこれ以上の言及は行わないが、4つのバージョンの細かな差違などについての検討はまた稿をあらためたい。

 「図書館奇譚」は主人公「僕」が市立図書館に本を返却する場面からはじまる。貸し出しコーナーに座ったこれまで見たことのない中年の女性に「僕」は本を返却にきたこと、そして本を捜していることを伝えると地下室に行くように告げられる。そして「僕」は地下室にいた老人に囚われ、読書室という名の地下独房で3冊の本を1ヵ月以内にすべて読んで暗記するよう強要される。「僕」の監視役らしい羊男(村上作品では「こちら側」(生)と「あちら側」(死)の結び目の番人という役割を担う重要なキャラクターだ)によれば、1ヵ月後、「僕」はのこぎりで頭を切られ、老人に脳味噌をちゅうちゅうと吸われることになるのだという。なぜ、老人は脳味噌をちゅうちゅう吸うのかといえば、知識の詰まった脳味噌はとろりとしてつぶつぶがあってとても美味しいから。のこぎりで頭を切り、脳味噌を吸うなんてずいぶんと乱暴なはなしだが、羊男はそれが「どこの図書館でもやっている」行為であり、「だって知識を貸し出すだけなら図書館が損をするばかりじゃないか。それに脳味噌を吸い尽くされても知識を得たいっていう連中は結構いるんだよ」と「僕」をなぐさめる。そして「吸われちゃったあとはどうなるんですか?」という「僕」の問いに羊男はこうこたえる。

残りの人生をぼんやりと夢見ながら暮らすわけさ。悩みもなきゃ、苦痛もない。イライラもない。時間の心配をしたり、宿題の心配をしたりしなくてもいいんだ。どうだい、素敵だろう?

村上春樹『カンガルー日和』(講談社、2018年、講談社文庫)

 知識の詰まった脳味噌にどれほど高い価値があるのかは、老人がその残虐性をいとわず手に入れようとすることからも明白だろう。なにより「『オスマン・トルコ収税吏の日記』は古トルコ語で書かれた難解な本だったが、不思議なことにすらすらと読むことができた。おまけに読んだページは隅から隅まで頭の中に記憶された。頭が良くなるというのは実に素敵な感覚だ。理解できないことは何ひとつない。脳味噌をちゅうちゅうと吸われてもいいから、たとえ一ヵ月だけでも賢くなりたいと願う人々の気持はわからないでもなかった」と「僕」が述べるように、脳味噌を吸われる側にとっても、知識を得る行為をとおして与えられる万能感を伴った快楽はとても魅惑的である。「そりゃ少しは痛いさ。でもほら、そういうのはすぐに終わっちゃうから」という頭をのこぎりで切られる「僕」の恐怖にたいする羊男の言葉を鵜呑みにはできないにせよ、地下独房の中に監禁されているあいだだけでも頭が良くなったことを実感しながら難解な本をすらすらと読み進め、脳味噌を知識でいっぱいに満たすなんて、ちょっとためしてみたくはならないだろうか。ともあれ、主人公の脳味噌の行く末は、ぜひ「図書館奇譚」を読んでたしかめてほしい。

 徹底した合理化を是とし、効率が極限まで追求され、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンス(!)を至上のものとする時代の流れのもと、映画は早送りで再生され、ライトノベルのタイトルはその内容を端的にかつ過不足なくあらわすものが好んでつけられるようになった。現代とはそういう時代なのだ、といわれれば反論するつもりもないし、そのこと自体の善し悪しについてとやかくいうつもりも毛頭ない。ただ、知識を得る快楽からはほど遠い(すくなくとも自分にはそうみえる)こうした風潮からは、時代遅れだと後ろ指を指されようが、すこし距離をおきたいと思う。そしてもしそれが可能であるならば、市立図書館の地下迷宮の奥にある地下牢獄の中で、羊男が揚げるカリッとしたドーナツとオレンジ・ジュースをほおばりながら、ただひたすら本を読んでみたい(スターバックスの併設された蔦屋書店では駄目なのか、と問われれば、商品を汚損する恐れのある飲料の持ち込みをを許容している時点で論外だとこたえる)。そういう図書館があったなら、なにを差し置いても僕は足を運ぶだろう。


参考文献

  • 「特集村上春樹上「読む。」編」『BRUTUS』2021年10月15日号No.948」(マガジンハウス、2021年)

  • 「特集村上春樹下「聴く。観る。集める。食べる。飲む。」編」『BRUTUS』2021年11月1日号No.949」(マガジンハウス、2021年)

  • 谷川嘉浩「異世界系ウェブ小説と「透明な言葉」の時代」『中央公論』2022年2月号(中央公論新社、2022年)

※「図書館奇譚」の引用は村上春樹『カンガルー日和』(講談社、2018年、講談社文庫)による。

(初出:『日藝ライブラリー』)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?