新文芸坐シネマテーク vol.46 モーリス・ピアラ監督『まずは卒業して』(1978)
若者の奔放な恋と性。
その断片がひたすら積み重ねられていく。
わたしは「何を見させられているのだろう?」という気になってくる。
反発と共感。
こういう若者が大嫌いだった自分。
でも、そういう生活を羨ましく思っていただけかもしれない。
抑圧していた自分の欲望の姿。
見たくない、認めたくない自分自身の。
そう思うと、もしかしたら、広い意味では「自分も同じだったのではないか」という気にさえなってくる。
今も?
若者たちの群像劇。
すべてが断片であり、明確な「物語」としての中心を持たない。
冒頭、哲学の授業から始まる。
講師は「哲学をするためには、思考を放棄しなければならない」というような趣旨のことを言う。
ラストで、1年後の同じ講師の授業がはじまり、同じ言葉が語られる。
「哲学をするためには、思考を放棄しなければならない」
「映画をつくるためには、物語を放棄しなければならない」という意味ではないのか。
だから、ひたすら若者の描写だけが積み重ねられたのではないか。
まるでドキュメンタリーのような。
実際に、若者グループは2人の俳優を除いて、皆、地元(ランス)の若者が非職業俳優として出演者に選ばれたそうだ。
そこから見えてきたのは、若者の未来への不安、社会的、経済的な背景もある。
この映画が、当時のフランスの地方に住む若者の姿を、ドキュメンタリーのように描いているのか、ある種の「戯画化」が加えられているのかはわからない。こんなに性にばかり興じていたのか。
ただ、観ている最中は「何を見させられているのだろう?」と思っていたけれど、観おわってみると「見事な映画だった」と思えた。
あの時代の若者の漠とした不安を、まさに捉えた。
【蛇足】
1978年の若者の不安と、今の若者の不安が同じなのか、違うのか、わからない。
ただ、ここでは、男だけではなく、女も同様に性に奔放であり、むしろ女の方が積極的とさえ言えるくらい。
今の時代では(特に日本では)、こういう描き方はまずされない。「してはいけない」ということに暗黙裡になっているから。
いや、「男の暴力に屈している女」というフレームを付ければ描ける。
この時代の差は何なのかと思った。
もちろん、この映画の描写こそが、「男の欲望を肯定するために、歪曲され、こう描かれているのだ」という批判は一見解としてはあるだろう。ただ、わたしはそうは思わないけれど。
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