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景観と風景と風土

先月、丹後地方に行ってきた。


30年前に、少し住んでいたことがあって、
一度ゆっくり、昔を訪ねてみたいと、
ずっと思っていたのだ。

5時間近くも電車に揺られて降りると、
関東の首都圏とは、全く趣の異なる風景が昔のように拡がっていた。
ちょうど、桜が咲き始めた頃で、
ゆっくりと景色や土地を堪能できた。
30年前は、見知らぬ土地での初めての子育が大変すぎて、
景色どころでは、なかったから(笑)

30年後に、その長女と連れだっての旅行。
シングル子育て終了の確認というか、
その頃の自分に会いに行きたかったのかもしれない。
時間というのは、ありがたいものだ。
大変だった思いも、柔らかく包んで、異なった表情を見せてくれた。
そして30年後にやってきた私を迎えて、私も新鮮な思いで素直に向き合うことができたのだった。

30年前と変わっていなかった丹後の町

昔より綺麗に、少しだけ大きくなった駅を降りると、
ほとんど昔と変わらない街並みと景色で、まるでタイムスリップしたみたい。
歩いて、昔住んでいた家や、お散歩コースを長女と一緒に辿りながら、
あれこれ話しているうちに、あることに気がついた。

30年も経っているのに、この町は、ほとんど変わっていない。
多少、街並みは変わってるし、大きな建物も少し増えているようだ。
それでも、町を囲む空気感が変わっていない。
周囲の大きな木々や、山のたたずまいが損われないで、そのままにあるのを感じたのだ。だから建物が古びても道が変わっていても、空気感が変わっていなかった。
もちろん、30年も前の記憶だから、正確とは言えないが。

この地域は、開発も盛んな場所ではないので、自然が損なわれることは少なかったのかもしれない。

40年前の東京の住宅地


そう考えると、私の生まれ育った場所(東京の住宅街)の変化はその比ではない。
私の子供時代というと40年以上前の話になってしまうが。
その頃の東京都内の住宅街は、まだ自然の息吹きが感じられた。
住宅には、当然のように土のある庭があったし、そこそこ庭木が植えられていた。
学校の校庭の周辺に植えられた木々の樹勢も勢いがあり、心地の良い木陰を作ってくれていた。そして、夏でも大きな木の下は、爽やかな風が吹いていた。
そして、ちょっと自転車で探検に行けば、玉川上水とか井の頭公園とかがあり、
釣り好きの男の子達は、何か魚を獲ってきていたようだ。
公園の木々は今見かけるそれよりずっと大きくて、当時子どもだったから大きく感じたというのではなく、実際に現在の姿より葉にも勢いがあり、木々は多かった。

30年から40年後の経年変化の地域差がとても大きい。
それが田舎と、都会との違い、そう一言で片付けてしまっていいのだろうか。

景観や周辺の自然の変化もそうだが、
それとともに、人も変わったなという印象がとてもある。

自然が与える人への影響と心の栄養

 1984年のアメリカの研究で、’’術後の回復に窓からの景色が与える影響’’ という、自然の風景の有無が人に影響を及ぼすという研究結果があるらしい。
割合影響力のある研究のようで、この結果を参考にして病棟を作ったものが日本にもいくつかあるそうです。例えばこの京都の’’病院’’など。

研究結果に頼らずとも、自然の植物が作る風景を見ると心が癒される、落ち着くといった感覚は、誰にでも覚えのあることだ。
逆に日常的に、植物を見ない、周囲に自然がないといった環境にいることは、
どれほどストレスになり悪影響を及ぼすことか、これはとても大事なことだと思う。

人間は、無機質な環境に長くいると、精神も病んでくる。

「口にするものだけでなく、目で見るもの、耳で聞くこと、感じること全てが栄養なんです」という言葉を聞いたことがある。
それは、確か娘のモンテッソーリの幼稚園の園長先生が仰っていた言葉だったのだが、とても心に残っている。
(「だから、お弁当ばかりに心を奪われないでください」と言葉は続いた)

それはともかく、
そう、周囲の普段目にする景色は、栄養なのだ。
それなのに、都市近郊の自然という栄養は、どんどん少なくなっている。

自然の代わりにコンクリートの構造物

都市部だけでなく、至る所の土は、コンクリートで覆われていることが多い。
何か建物が建っていたり、道路になっていたり。
ただボーボーと草が生えてるだけの草っぱらなど、なかなか見かけない。あるとしたら、解体した後の土地に、次の建物が建つまでの間に生えるロープで囲われた敷地の中の雑草くらい。
都会の中の公園に木が植栽されていても、周りの土地が固められていたり、密集した庭もない住宅の中にポツンとある箇所だと、木も大きく根を張れていない。
だから、葉も元気なく、充分な心地の良い木陰を作ることができない。
都会にポツンとある公園に木があっても、どこか殺風景、かえって殺伐としたものを感じる、なんてことはないだろうか。
せっかくの公園のわずかに残ったスペースに、コンクリートの歩道ができていたりする。
とにかく、都会はコンクリートの構造物が多い。
それが見慣れた景色となっている。

景観10年、風景100年、風土1000年

この言葉は、風土工学というジャンルを創造された竹林征三氏の言葉だそうだ。
現実の目の前の景観は10年単位で作られ、風景を形成するには100年単位、さらに風土となるには1000年単位の時間をかけるという意味だそう。
1000年単位の時間をかけて作られるものは、おそらく自然に沿った形でなければ残れない。
コンクリートの擁壁の寿命は30年から50年と言われているので、擁壁工事をした崖地は、100年とその形を保てないことになる。
コンクリートそのものも保てないが、周辺環境への影響を考えると、いったい100年後には、どんな風景になっていくのだろう。
見た目だけのことではなく、それを見ている、人への影響もあるだろう。
もちろん動物にも。

コンクリートや構造物で覆い尽くしてしまうと、土壌の保水性通気性も損なわれるので、土の中の生物性も大きく変わる。

目に見えない土の中に、植物の根がたくましく伸びて土壌生物を養い、生き物をたくさん抱え込んでいる時、地上の生き物も生き生きとして、美しい風景、風土となっていくのではないだろうか。

日本には多くの森林があり、木々が醸し出して作る風土の中で人は美しい生活を営んできたように思う。
30年ぶりに訪れた丹後の田舎町の変わらぬ姿に、改めて、自然がそのままに変わらないことの素晴らしさ、美しさ、安心感を大切にしたいと、切に思った。



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