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自然観察園主任という仕事-33年目の転職-

転職

 2016年の春、私は32年間勤めた農協を退職して新しい仕事に就いた。新しい仕事とは「せら夢公園自然観察園主任」。退職した翌日から世羅町黒渕にあるせら夢公園に毎日通勤している。せら夢公園は、せらワイナリー、県民公園、ゆめ高原市場などで構成され、大人から子どもまで楽しめる施設だが、その県民公園の一角に世羅台地の自然をコンパクトに再現している小さな植物園が「せら夢公園自然観察園」であり、ここの管理と運営が主任である私の新しい仕事になった。

世羅台地の自然とせら夢公園自然観察園

 この自然観察園で見ることができる世羅台地の自然とは水辺の自然である。標高350mから450mのゆるやかな高地である世羅台地には、赤松が優先するなだらかな山地が広がり、そのいたるところで、栄養分の少ない湧水が流れ込む緩やかな湿原が点在している。貧栄養湿地とも呼ばれるこうした湿地では、いわゆる高茎草本(背の高い植物)は生育しにくい。そのおかげで、サギソウ(鷺草)やトキソウ(朱鷺草)、モウセンゴケ(毛氈苔)、イヌノヒゲ(犬の髭)の仲間など、湿地特有の背の低い植物が自生している。 
 また、貧栄養湿地は、世界最小といわれるハッチョウトンボ(八丁蜻蛉)やモートンイトトンボ(モートン糸蜻蛉)、ヒメヒカゲ(姫日陰)やヒョウモンモドキ(豹紋擬)といった湿原を住処とするチョウなどにとってかけがえのない棲み処ともなっている。カスミサンショウウオ(霞山椒魚)やヤマアカガエル(山赤蛙)といった両生類も繁殖場所となる湿原がなければ生きていけない。
 流量の多い河川が少ない世羅台地には、水田の用水を確保するために数多くのため池も造られている。ため池は人が作った水辺だが、各地で減少しているコウホネ(川骨)やタヌキモ(狸藻)、ヤマトミクリ(大和実栗)といった希少な水生植物が世羅台地のため池には残っている。
 環境省は、多様な動植物が生息している湿原やため池が点在する世羅台地を日本の重要湿地500選のひとつとして指定している。しかし、湿原やため池といった水辺を住処とする生き物たちの中には、この世羅台地においても様々な原因により減りつつあり、絶滅が危惧されているものも少なくない。  
 担当がたった一人だけの小さな植物園・せら夢公園自然観察園は、こうした世羅台地の動植物の保全と再生、自然の守り手を一人でも多く増やすことを目的として、2008年(平成20年)に県の施設として世羅町黒渕に開園された。管理と運営は、せら夢公園のもうひとつの施設であるせらワイナリーを運営している㈱セラアグリパークが受託しており、私は㈱アグリパークの社員であり、せら夢公園自然観察園主任はこの会社での職名である。
 アカマツ林に囲まれた細長い谷に広がる自然観察園は、かつては棚田としてコメ作りが行われていた場所で、その地形を活かして石積みや防水をやり直し湿原やため池を造成してつくられた。園内には、樹林地や草地、ため池、湿原、田んぼが連続的につながったいわゆる里山の環境が創出され、世羅台地で見られる多くの動植物が生息できる場所として維持・管理されている。
 早春のため池ではヒキガエル(蟇蛙)が、湿地や水路ではヤマアカガエルやカスミサンショウウオが周辺の林から降りてきて自然観察園で産卵している。初夏にはトキソウ、梅雨が明けるころにはサギソウが湿地を埋め尽くし、梅雨の時期の林縁にはササユリ(笹百合)が可憐な花を咲かせる。トキソウやサギソウが咲く頃には真っ赤な雄のハッチョウトンボがそれらの花にとまった姿をカメラに収めようと、京阪神からも写真愛好家が訪れる。
 盆花として親しまれてきたミソハギ(禊萩)、キキョウ(桔梗)やオミナエシ(女郎花)といった今ではめっきり見かけなくなった秋の七草も、同じ仲間となるサワヒヨドリ(沢鵯)をフジバカマ(藤袴)に見立てれば全て揃う。
 トンボの種類も多い。近年農薬の影響が原因とされている赤トンボの減少も、農薬を使用することのない自然観察園には当てはまらない。アキアカネ(秋茜)、ナツアカネ(夏茜)、ヒメアカネ(姫茜)、ミヤマアカネ(深山茜)、マユタテアカネ(眉立茜)、ノシメトンボ(熨斗目蜻蛉)、キトンボ(黄蜻蛉)、ネキトンボ(根黄蜻蛉)など、きりがないとは言わないが、身近な田んぼからは姿を消しつつある赤トンボたちが健在だ。
 湿地を囲む山林に目をやれば、アカマツやコナラ(小楢)に混じって、コバノミツバツツジ(小葉三つ葉躑躅)、ヤマボウシ(山法師)、ナツツバキ(夏椿)、リョウブ(令法)など、折々の花が山に彩を添えている。コシアブラ(漉油)やワラビ(蕨)といった山菜もたくさん採れる。

消えゆく里山の生き物の再生

 自然観察園は、多くの生き物で賑わっていたかつての農山村を今に伝える貴重な場所でもある。
 こうした農村の景観は自然に形作られたものではなく、燃料や肥料など、暮らしに必要なものを身近な山から調達していた人の営みが作り上げたものだ。今ではすっかりご無沙汰してしまったマツタケ(松茸)などは、だや(牛舎)の敷料や堆肥の原料を調達するための落ち葉掻きや、風呂や煮炊きの燃料を確保するための柴刈りの賜物だった。山に手を入れなくなれば痩せた地を好む松茸が出なくなるのは当然の成り行きだ。
 そうした、消えゆく里山の生き物の中のひとつに、ヒョウモンモドキ(豹紋擬)というタテハ科の蝶がいる。かつては全国各地の草原や湿原に生息していたが、今では世羅台地が唯一の生息地になってしまった。
 日本に生息する蝶は240種あまりだが、1/4にあたる約60種もの蝶が絶滅の恐れがあるとして環境省のレッドデータブックにリストアップされている。その中で最も絶滅に瀕しているのがヒョウモンモドキだといわれている。
 生息地は、世羅町、三原市久井町、同大和町にあるわずか十数ヶ所に過ぎない。多くは、人里離れた場所にある湿原となった耕作放棄田だ。かつて水田だった場所にはヒョウモンモドキの幼虫の食草であるキセルアザミ(煙管薊)が群生し、周辺の畔や林縁に成虫の蜜源となるノアザミ(野薊)が花を咲かせる人目のつかない場所でヒョウモンモドキはかろうじて命をつないでいる。
 かつての農村、特に基盤整備(圃場整備)が行われる以前には、周囲を山で囲まれた田んぼの周りにはヒョウモンモドキが生きていくのに必要な環境がいたるところにあった。自然の湿地以外にも、農業用の土水路の岸辺や水が染み出すような林縁の斜面やため池の堤などにキセルアザミノが群落を形成していた。周辺の林縁やあぜ道ではノアザミが花を咲かせ、ヒョウモンモドキが蜜を吸う姿が人々の暮らしのすぐそばで見ることができたという。ヒョウモンモドキは人の営みに寄り添うように命をつないでいた。
 しかし、基盤整備や農法の変化により彼らが依存していた環境は激変してしまう。キセルアザミが減り、ノアザミが減り、そして、ヒョウモンモドキは私たちの周りから姿を消した。豊かな暮らしを求めて推し進めた生産性を追求する農業の近代化が、ヒョウモンモドキを絶滅の危機に追い詰めてしまった。
 ヒョウモンモドキだけでなく農業の近代化や生活様式の変化は多くの生き物の生息環境を奪った。環境省のレッドレストの半数以上は、手付かずの自然ではなく人里の生き物で占められている。ゲンゴロウ(源五郎)しかり、タガメ(田亀)しかりである。兎追いしかの山も小鮒釣りしかの川は、かつての山河とは別のものになってしまった。
 ご存知のように、日本産のコウノトリ(鸛)とトキ(朱鷺)は国や関係者の努力も空しく絶滅している。現在、日本の空を舞っているのは全て海外から移入した鳥の子孫たちだ。野生復帰を目指して国などが施設を整え人工的に増やし、放鳥された鳥が二度と絶滅しないよう、彼らの餌となるカエルやドジョウを増やす米作りが地元の農家によって取り組まれている。農家の取り組みがなければコウノトリとトキの野生復帰は成しえなかった。
 2000年、ヒョウモンモドキをコウノトリやトキのように絶滅させてはならないと有志数名によって保護活動が始まった。翌2001年には研究者、昆虫の愛好家、兼業農家などによってヒョウモンモドキ保護の会が発足している。
 保護の会は、①ヒョウモンモドキの調査研究、②地権者に生息地での保護活動の了解をとりつける、③生息地の維持管理、④勉強会、⑤広報活動などの活動を行ってきた。特に重要な活動が生息地である耕作放棄田にキセルアザミを増殖し、その周辺にノアザミを増やすことだ。具体的には、人里はなれた耕作放棄田での年2回の草刈ということになる。管理人もこの春に入会させていただいたが、ぬかるんだ田んぼでの草刈も大変な作業だが、刈った草はすべて持ち出さなくてはならず、保護活動はかなりの重労働である。
 数年前からはヒョウモンモドキの飼育・増殖にも取り組んでいる。目的は、生息数の維持と絶滅した生息地や新たに整備した生息地で放虫するための幼虫を確保することだ。その施設は私の職場であるせら夢公園自然観察園に設置してあり、保護の会のメンバーと協力して蝶の成虫や幼虫を飼育することも私の大事な仕事になっている。

自然再生の担い手として期待される農業者

 保護活動には様々な課題があるが、それは農業が直面する問題と多くの点で共通している。
 その一つが担い手の確保である。発足して15年目になる保護の会では、メンバーも15年歳を重ね、主力メンバーの年齢は60を超えている。保護活動の後継者を育成しようと小学校や中学校の授業として子どもたちに保護活動に参加してもらってはいるが、彼らが戦力になるのは早くても10数年先の話だ。しかし、彼らの成長を待っている余裕はない。
 そこで、期待されているのが農業者である。かつての生息地を含めヒョウモンモドキの生息地はほぼすべてが私有地である。土地の所有者である農業者が自分の田んぼやその周辺にキセルアザミやノアザミを増やすような管理を行うようになれば、ヒョウモンモドキの生息環境は大きく改善される。事実、保護の会の会員の中には、野菜を栽培するすぐそばの水路や耕作放棄田にキセルアザミノ群落を整備しノアザミを増やし、ヒョウモンモドキが生息できる環境を整えている農家がおられる。また、集落にある生息地を維持管理するとともに新たな生息地の創出にも取り組んでいる集落型の農業法人(集落法人)も存在する。
 ヒョウモンモドキの保護には取り組んでいなくても、農業者への公的支援策である多面的機能直払い、中山間地域直接支払い、環境保全型農業直接支払いなどを活用して、地域の自然を守る活動を行っている集落法人や農機具の共同利用組合も少なくない。
 こうした地域の農業者に生息地の維持管理の活動に加わってもらい、さらには地域の中にキセルアザミやノアザミの生育に適した環境があれば、その一部をヒョウモンモドキの生息地として整備していただくことがきれば、担い手の問題も少しは解消できるだろう。
 また、集落法人をはじめとする米農家の多くが一般の米より価格の高い農薬や化学肥料を減らした特別栽培米を生産しているが、ヒョウモンモドキをはじめとする農村の生き物を守る活動を米の付加価値として消費者に認めてもらうことができれば、身近な自然を守る活動を新たな収入源とすることもできる。事実、コウノトリやトキの生息地では、行政、JA、量販店などが協働して、田んぼの生き物を増やす技術を取り入れた田んぼで育てた米を”生き物ブランド米”として販売し、農家の収入増につなげている。10年ほど前、農協の営農担当の職員として世羅町の集落法人と”生きものも育てる世羅高原のこだわり米”で農家の手取りを増やすことを私自身試みていたが、道半ばで異動となり取り組みは立ち消えた。その試みを、ヒョウモンモドキの再生を通じて成就できればとも考えている。
 自然の守り手を増やすために、自然観察園では以前から自然再生の担い手を養成する講座を開講してきた。私もこれに倣い、2016年度に”ゆめ農業先端的環境保全型農業技術講座”と題する農業者向けの講座を企画した。県や日本自然保護協会に講師として、生物多様性保全における農業者の役割、環境保全型農業への公的支援の活用方法、農薬を使わない病虫害の防除技術などを紹介した。私も自然観察園での取り組みについてお話させていただいた。
 天敵が好む植物(バンカープランツ)を作物と一緒に混植したり害虫が嫌う黄色い光を利用して害虫の被害を抑える技術や、オタマジャクシがカエルに変態するまで田んぼの中干しを遅らせ、田んぼの中に常時水を溜めておくことのできるヒヨセを設けることで田んぼの生き物を増やし害虫を減らす技術などについて広島県立総合技術研究所農業技術センターの研究員に講義してもらった。
 対象を農業者に絞った講座を開講することは自然観察園としては初めての試みであり、農薬にたよらない防除技術はともかく、生き物も増やす農業技術で果たして受講生が確保できるのかと心配したが、集落農業法人や有機農業に取り組んでいる農家、自然再生に関心のある一般市民など、地元世羅町をはじめ遠くは東広島市などから定員どおりの30名の方々に受講していただくことができた。
 この講座は2017年にも行う予定であり、自然再生と農業振興にお役に立つことを目標に仲間と企画を練っている。

おわりに

 私は一人の農家として農協職員として、身近な自然を守る農業の実践を通じて地域の農業と自然を再生することを目指してきた。しかし、生来の怠け者ということもあって目標にはなかなか近づけないでいる。
 そんな折、自然観察園の前任者が2015年8月末で退職することになり、付き合いのあったヒョウモンモドキ保護の会の方から自然観察園へ来ないかとお誘いを受けた。定年まであと数年ありすぐには決心がつかなかったが、目指してきたことと六十歳近くなった私に残された時間とを考えた結果、農協職員から自然観察園主任への転身は、これ以上の選択はないように思えてきた。
 これから何年この仕事ができるかわからないが、声をかけていただいた方や、自然観察園に関わる方々の期待を裏切らぬよう、与えられた恵まれた環境のもと、できるだけのことをしなくてはならないと思っている。(了)

(2016年に発行された「みつぎ文学」に投稿したものを転載しました)

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