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<試験に出るチャイの歴史・・その1>

2005年6月4日、カンテにこんなメールが届きました。

「こんにちは。ダンナの仕事で大阪から横浜に来てしまいました。
ダンナの会社の若者が「今、東京で『チャイ』と言う飲み物が秘かなブームなんですよ」とダンナに言い、ダンナは「今頃ブームなん?」と聞くと「え、知ってるんですか?(このおっさんがどうして?)」みたいな顏をされたと言う話を聞き(笑)無償にチャイが飲みたくなり、家で作って飲みながらパソコンを触った所、カンテのHPに辿り着きました。嬉しく懐かしかったです。(紋子)」

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僕がカンテに入る前の1970年代後半、まだチャイは世間に認知されていませんでした。巷では雑誌『ポパイ』に代表される『アメリカ消費文化全盛』で、そのまっただ中にいた僕は普通の社会人だったし、エスニックなどという言葉もなく、ましてや紅茶とケーキをたしなむ世界からはほど遠い生活をしていました。

そんな僕が、以前働いていた会社の同僚から「変わった喫茶店がある」と教わったのが紅茶専門店「カンテ・グランデ」でした。
その店は本当に風変わりで、お店に入るのを躊躇わせる霊気を感じ、入り口で「入ってもいいんだろうか?」と10分は悩んだ記憶があります。

意を決して店内に入り席につき、怪しい服装の店員が持ってきたメニューを開いたら紅茶の名前ばかりで全く訳が分からず、かろうじて当時山口百恵が飲んで評判を呼んだ「ウーロン茶」(紅茶でもない!)の名前を見つけて注文したまではよかったんだけど、テーブルに配膳された中国茶用のカップにはスプーンが付いて来なかったのを「忘れたのかな?」と勘違いして、テーブルに置いてあった砂糖壺のスプーンを使って砂糖を入れたあと気づいたんですが、「もしかしてこれ、砂糖を入れずに飲むのかも」、しかし時すでに遅し、カップの底に沈んだ砂糖を見ながら飲んでしまったのでした。

とまあそんな僕が25年間チャイに携わったおかげで、こんな年表を作る事ができるようになりました。ご覧下さい。

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1952年・・大阪堂島に「ムジカ喫茶室」が創業

1966年・・喫茶「カナディアン」が大阪北区にオープン(店主は故山田育宏氏)

1968年・・ビートルズのインド指向は、世界の若者の東洋指向、インド指向に多大な影響を与え、それは音楽に留まらずファッション、文化、思考にまで及び、山田氏へと届く。

1969年・・「ムジカ喫茶室」は、日本で初めてのティーハウス「ムジカ」に変貌。

1971年・・日本で最初の情報誌「プレイガイドジャーナル」創刊。紅茶の輸入自由化。

1972年・・山田氏インド(カルカッタ、ダージリン)への旅でチャイに遭遇。時を同じくしてレストラン「カンテ・グランデ」が大阪中津にオープン。

1973年・・カンテの店主:井上氏が、アルバイトに連れられて行った「カナディアン」で山田氏と遭遇。これがきっかけとなって「アジアの紅茶=チャイ」のメニュー化が進むことになる。(運命に引き寄せられるように、この年、僕は大阪に来た(笑))

1974年・・山田氏の姉が「ムジカ」で働いていたことで、ムジカのシチュードティー(シナモン味の煮込み紅茶)をヒントに、山田氏が日本のチャイの原型(シナモン風味)を誕生させる一方、カンテは紅茶専門店のノウハウを活かし、独自のルートでスリランカから直輸入した茶葉で、ノースパイスのチャイを展開。この年「スカイメイトクラブ」がインドツアーを実施。

1975年・・山田氏「プレイガイドジャーナル」にカルカッタ、ダージリン、ネパールの旅行記を寄稿するや、若者たちのカリスマ的存在となる。いつしか「カナディアン」は「加奈泥庵」と改名。かたや、井上氏は1978年まで世界各国を旅し、インド、ネパールの雑貨を扱う店を計画。同年、カンテのスタッフがスリランカでチャイ用に最適な(ルフナ地方ゴール産の)茶葉を発見し、直輸入することになる。以後これが「カンテのチャイ」の味の基本となる。

1979年・・井上氏は、アフガニスタンのとある茶屋を再現したTEA HOUSEを作り、その店頭で直輸入の雑貨と紅茶とオリジナルの服を売り始め、エスニックという言葉がまだなかった時代に、新しいアジア的なライフスタイルを提案した。これがカンテの「阪急ファイブ店」である。(つづく)

阪急ファイブ店・店先の白壁に書かれた店名

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