『チャイの旅』ができるまで
第二章:カンテでの楽しかった日々
その05:カンテ資料館<そば猪口と真鍮のチャイスプーン>
第一章では、僕がどういうものに影響されて育って来たのかを、本や雑誌を中心に話してきましたが、ここからは、カンテ以前に吸収してきたものとカンテで吸収したものとが、どんな風に合体してレシピ本「チャイの旅」の完成に向かうのかをお話しようと思います。
このそば猪口が、僕がカンテと出会った何年前から使われていたのかは分かりませんが、オーナーが、ある時、作家もののそば猪口を見つけ、チャイを提供するにはちょうどいいと思い注文したものだと聞いた事があります。その時、個数も聞いたはずなんですが、覚えていません。(多分100個ぐらいかな?)
実際は、この写真のようにスプーンを乗せて提供していたわけではなくて、小皿にカップとスプーンを乗せて出していました。(小皿の適当なのが見つからなくてこんな写真になってしまいましたが。)
ただ、このそば猪口は一番最初のサンプルで、実際に使ったものはもう少し背が高くて中には模様はありませんでした。 1972年7月にカンテ・グランデがOpenした時は、レストランだったと聞きます。その店があまり流行らず、どうしようかと思っていた時に、梅田に空き物件が見つかり、それが「梅地下:泉の広場店」の始まりです。
Openしたのが、1973年の12月。この時にはもう紅茶専門店になっていたようです。その後、「カンテ」で働いていたアルバイトに「カナディアン」のマスターを紹介されて意気投合し、両店で「チャイ」をメニュー化したのが、大阪でのチャイの始まりだと聞きます。
ちょうどその頃、スリランカに紅茶の買い付けに行ったスタッフがたまたま見つけた低地産茶の茶葉(名前は不明でしたが、等級はF.B.O.P.F.)がチャイに合うかもしれないと思い、持って帰った茶葉で作ったチャイがおいしかったので、それ以後、カンテのチャイの茶葉はスリランカ産を使う事になったのでした。
しかし、普通に考えれば、インド式のチャイを始めようとしたんだからインドの茶葉を使えばいいんじゃない?と考えるのが普通ですよね?それをなぜスリランカ産にしたのか?
その理由は、カンテは当時紅茶専門店だったので、紅茶の香りには敏感だったからです。インドのチャイ用の茶葉は製造工程上の理由から、香りの成分が乏しいものが多かったので紅茶としてはピンと来なかったのでしょう。 それに比べて、スリランカ産の茶葉はいい香りがしたのです。特に香りの成分が多く含まれるTips(芯芽)をふんだんにブレンドしたものがあったので、それを使うようになったというわけです。
カンテはその茶葉の名前を、等級F.B.O.P.F.(フラワリー・ブロークン・オレンジ・ペコー・ファニングス)にちなんで、「フラワリー・ファニングス」と命名したのでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?