見出し画像

<大阪の紅茶文化についての考察>

[むかしむかしカンテで・・]Page36(2005)「カンテ・マガジン」より

倉庫の片づけをしていたら、雑誌に挟んであった新聞の切り抜きが見つかりました。たぶん、社長が切り取っていたのでしょう。その日付をみたら「1982年(昭和57年)5月1日」となっている。

その切り抜きは《紅茶文化》について書かれてあって、大阪の紅茶専門店が3店舗紹介されています。まず最初に北区堂島の「ムジカ」について、次は谷町の「伽奈泥庵(カナディアン)」について、そして最後は「カンテ・グランデ」について。(カンテ以外のお店の文章は都合により省略します。)

★店は若者でいっぱい
大淀区(現:北区)中津、梅田地下センター(現:ホワイティ梅田)、阪急ファイブ(現:HEPファイブ)の三ヶ所に店を出す「カンテ・グランデ」の井上社長。年に二回はネパールへ行く。ネコやニワトリが土間をうろつくインドの喫茶店を真似て、店の庭にベニヤ板でつくった実物大の牛を置いたり、アフガニスタンで見かけた店そっくりの入り口で民芸品のバザールをしたり。しかし、「10年も店をやってると感覚が古くなるから」と20代前半の若い店長らにまかせている。

店は若者でいっぱいだ。茶園別のダージリン、牛乳で点てたチャイが自慢。今年のテーマは「お茶とくつろぎ」。店内には「ネパール・ツアー募集中」の貼紙があった。
ムジカと伽奈泥庵とカンテ・グランデ。それぞれに、独特の背景と、においと、お客さんとを持ちながら、ポットから香る湯気の向こうに「紅茶文化」を醸し出してきた店である。共通するのは、ティーバッグを決して使わないこと。大阪流に省略して「ミティー」「レティー」なんて注文しようものなら、たちどころに客の資格を失うに違いない。(朝日新聞・大阪/タベモノロジー)

文章は間違いが多く、訂正させていただきました。(神原)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1982年は、カンテで、これからチャイがメインになるという過渡期で、まだまだ人気はセイロン紅茶やダージリン紅茶でした。僕もマスケリアばかり飲んでいましたから。
それとこの頃は、ティーバッグは御法度でしたね。「紅茶を扱う人間として恥を知れ」みたいな感じ。今はティーバッグ全盛なので、美味しければOKな時代です。僕がカンテを離れる少し前には、僕が自らティーバッグを選んでメニューに載せていたぐらいポピュラーになっていました。

ただ、自分が飲む場合は必ずポットでいれて飲んでいるし、ティーバッグを使うのは確認のためだけですね。やはり、僕は「恥を知る人間」ですから。(笑)

文章の最後の「ミティー」「レティー」に関連して言えば、もちろんカンテの人間としてはこういう名前は口が裂けても言いませんでしたが、ある日、中津カンテのカウンター(ホールと厨房の境界)上にアルバイトの人達に向けて1枚の紙が貼られました。
「チャパマリ等、下品な略語を使ってはいけません。」
これは社長の切なる願いでしたので、手書きの大きな字で書きなぐられていました。

悲しいですよね、社長が敬愛するマリア・カラスの名前を、料理に箔をつけるために「チャパティー・マリア・カラス」と名付けたのに、若い人たちはその名前に関心も思い入れも無いもんだから、オーダーを通す度に「チャパマリひとつ」なんて叫ぶんですから。ちなみに、昔のメニューに、これの元となった「マリア・カラス・サンド」というのがあって、これもみんな「マリカラ」って呼んでたなぁ。


2012年頃、森川くんが盛りつけて僕が神原ルームで撮影したチャパティ・マリア・カラスです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?