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1973年ごろのカンテ

2005年の「カンテ・マガジン」より

1980年頃のカンテの伝票の裏で、「う」は梅地下店のことです。

先日、武田さんという方からメールを頂き、「かつてカンテ・グランデが地上にあった頃、よくお茶を飲みに行ってました。」ということでしたので、いつごろのことかお尋ねしたところ、
「初めてカンテ・グランデに行ったのはたしか1973年か、1974年あたりです。」(注:カンテができたのが1972年、1973年には梅田地下の店が紅茶専門店としてオープンし、1974年にはチャイが「ミルク茶」としてメニュー化されています。)
武田さんは僕より2つ下で1973,1974年頃といえば僕は大学生でした。僕は全くその頃カンテを知らなかったので、「当時どんな感じだったか憶えていますか?」と訊いてみました。

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武田より《よみがえる記憶。》

あやふやなものにすぎないのですが、いろいろあります。高校を卒業して、その後就職するまでの数年間、しょっちゅうカンテに行ってました。最初にカンテに行った時、すでに紅茶の専門店でした。レストランや喫茶店で始まった店だったことは「カンテ・マガジン」を読んで初めて知りました。

神原:僕は知らないんだけど、中津店にはカウンターがありましたよね。
武田:ありました。そのカウンター越しに中2階があって、その真下に厨房がありました。レコードのターンテーブルも厨房の脇に置いてあったはずです。

ある日、開店の9時(注:昔は喫茶店てこの時間に当たり前に開いていました。)と同時に店に入ったら、いつものクラシックではなくハード・ロックががんがんと鳴っていて、厨房に入っていた店員さんがあわてて盤をかけかえたことがありましたっけ。その曲(なんだったか忘れましたが)でもよかったんですけど。

早い時間に行って、一番奥の席をぶん取るのがその頃の習慣でした。石を積んだ壁の隅っこの席です。その中に、はずれる石が何個かあって、その石の下に手紙をしのばせて、女友だちとの「通信」に使っていました。

神原:はずれるんですか?知らないです。店主かそれっぽい人居ました?
武田:店主っぽい人というより店主本人と話もしました(笑)。名前が温なのでオンさんと呼んでいました。声をかけたら、気さくにお相手してくれはりました。私はカンテの建物に興味があって、自分もいつかこんなものを建てて住んでみたいと言いましたら、オンさんが「これね、維持するのがけっこう大変なんですよ」ということをおっしゃったのを覚えています。

神原:あと何か憶えていますか?
武田:砂糖入れが、最初はステンレスの円筒形でしたね。そのうち日本茶の缶みたいなのに変わってしまいました。
神原:それってキーマンの缶ですね。
武田:一種類、家に持って帰りたいぐらい座り心地のよい椅子があって、それは黒いラッカー塗りの曲げ木の椅子でした。
当時、カンテのブックマッチのデザインに家の絵を使ってあったので、カンテ・グランデを「大きな家」と勘違いしていたのは恥ずかしい記憶です。

神原:ありがとうございました。武田さんはディンブラがお好きなようですね。僕はディンブラと同じ地域のマスケリアが好きでした。渋みがほとんど気にならないぐらい軽くて、毎日ストレートでガブガブ飲んでいました。知名度がなくて、1990年頃にはセイロンのBOPはディンブラだけになりましたけど。

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