見出し画像

『チャイの旅』ができるまで

 第二章:カンテでの楽しかった日々
その16:カンテ資料館 < チャイ缶の変遷 >

カンテが紅茶を直輸入し始めたのは1974年頃で、スリランカの高地産のディンブラ(ポットティー用)と低地産のゴール地方の茶葉(フラワリー・ファニングス=チャイ用)の2種類だと聞いています。

その後、個人の輸入業者からダージリンとアッサムを買うようになり、茶葉の販売もするようになりました。

1980年ごろまでは、写真のように「量り売り」だったのですが、中津店、梅地下店、阪急ファイブ店と店舗が増えて来た頃、缶入り、袋入りでの販売を考えるようになり、その仕事を僕が担当することになったのでした。

 印刷会社で見よう見まねで覚えた版下(原稿)作りがここで役に立ちました。ラベル印刷も知り合いのラベル屋さんに頼んで作ったのが、白地に名前だけのシンプルな「チャイ用ダスト茶」です。

 ただ、問題だったのは、缶を作るのには最低数量が5,000缶だったこと。一年で消化するには、一日に14缶売らないとダメだったんですが、そんなに売れるわけがない。でも、その頃のカンテは大胆だったので、注文したらなんとかなる、みたいな感じで作ってしまったんですね。まあ、普通なら5,000缶作ったら、仕舞っておく倉庫なんかない!んですが、カンテはありましたからね、でっかい紅茶倉庫が。最大3トンの紅茶の木箱を仕舞ってましたから、昔は。

 しかし、世の中不思議なもので、その頃、チェーン展開を始めたばかりの「ママイクコ」という会社がカンテの紅茶をラインナップに加えてくれて、5,000缶は一年で消えて行ってくれたのです。ただし、「チャイ用の茶葉」は人気が全くなく、ラインナップにも揃えてもらえず、他の茶葉より売れる数は少なかった。
そりゃそうですよね。大阪でも「チャイ」というのは一般的には認知されておらず、一部のコアなファンだけが愛する飲み物でしたから。

 そんな、チャイ(の茶葉)が売れるようになったのは、大阪マルビル店が出来た1986年ごろだと思いますね。この頃になると、インドには結構若者が旅行に行ける場所として定着した頃だし、雑誌「ブルータス」とかでも「インド特集」とかしてましたから。

 「Indian Style Boild Milk Tea " Chai"」という言葉がカッコよかった時代です。「ラベルもかっこいいのを作らないと」と思い、出来たのが紙の帯を缶に巻くというスタイル。紙も凝って「ダニエル」という凹凸のある紙を使用し、特別な感じを出しました。

チャイの缶がたくさん写ってる写真がそれですが、この写真、「DEAN & DELUCA」の広告を真似てモノクロで処理してあります。ま、洋雑誌の広告だから、誰にも分からないと思って。
 その後、Junichi君がチャイグラスの絵を真似て描いてくれたのを採用して、紙も変えました。90年代は、紅茶が下火になっていくのと反対に、カンテ出身のウルフルズ人気も手伝ってチャイがじわじわと世間に認知され始め、ついには、どの紅茶缶よりもチャイの缶が売れる時代がやってきたのでした。

 2000年が過ぎた頃、ウルフルズの所属するタイスケの事務所から電話がかかって来ました。
「ツアーライブの会場で、チャイの缶を売ろうと思ってるんですけど、対応できますか?」と訊かれたので、「出来ますよ。で、何缶ですか?」って訊いたら「1会場に100缶で、40会場だから4,000缶です。ただ、一遍に作ってもらわなくてもいいです。」って。
僕の返事は「大丈夫です。」と即答。
逆にやる気が出たのは僕の性格です。(笑)
 紙のラベルはタイスケが準備してくれたので、僕は、缶に紅茶を詰めて紙ラベルと賞味期限のラベルを貼って、ライブごとにまとめて送ること。あとは、紅茶と缶を切らさないように注文するだけです。

 楽勝だと思ったんですが、ひとつだけ誤算があって、蓋を閉める時にかなり力がいるので、親指が痛くなったことでした。
痛みがあるのに、缶の蓋を閉めないといけない。それも4000缶。
これは、少々辛かったなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?