『チャイの旅』ができるまで
第二章:カンテでの楽しかった日々
その9:カンテ資料館<中津「NP」と初代「秘密基地(神原部屋)」>
1982年のことです。
カンテと庭を挟んで、オーナーの所有する店舗用の木造二階建ての借家があり、そこが使われなくなった後、しばらくは喫茶の倉庫として使っていたらしいのですが、前年にアパレル部門「NP」を本格的に始めたこともあって、その倉庫の1階をブティック風に改造して2階を倉庫にしたのが「NP中津店」でした。
ここでは、地方から大阪に仕入れに来られた服屋さんや雑貨屋さんに販売することを主な目的にしていたので、僕がその対応に当たっていたということですね。
インドやネパールから届いた服を番号順に並べ、金額を決めタグをつけて展示し、卸に来られた方に注文をしてもらい、それをまとめて段ボールで発送するまでが僕の仕事でした。何事もひとりでやりたがる僕の性格が災いし、アルバイトを雇うとすぐに喫茶の方に移動してもらい、結局僕ひとりの仕事場になるのがパターンでした。
店舗は中が見えるようにガラス張りでしたが、お店の正面には何の説明もなく「NP」と桃のマークがあるだけだったし、それに人通りも少なかったので、1日のお客さんは、5人ぐらいだったと思います。ま、はっきり言って売り上げには期待していなかったんですね。地方のお店の人が来た時に、卸値でたくさん買ってもらえれば、それでよかった。そういう場所だったんですね、ここは。
それに、僕の仕事は他にも紅茶の卸と販売やメニュー製作など色々とあったのでお客さんが入ってこなくても仕事はたくさんあったし、部屋の改造とかやってました。
店内は、一応そのシーズンの服は掛けられていましたが、ここにも何の説明もなく、店員(僕)は「いらっしゃいませ。」も言わなくて、店の奥で黙々と仕事(服の在庫チェックとか)をしているだけで、一旦入って来たお客さんも、一通り見たらすぐ出て行く、というような素っ気ないお店でした。
だって仕方がないです。僕はアパレルなんて本来興味がなかったのに、「ここで紅茶の仕事をするついでに服を売れ」と言われたんですから。それに売り上げの目標もなかったし。
さて、その店の奥には僕の仕事部屋があり、カンテの喫茶の人達がやりたくない仕事(日報の整理、紅茶の袋詰め、印刷物の発注、BGMのテープ作成等、メニュー制作、撮影)や、紅茶やアパレルの卸業をバリバリとこなしていました。表向きは服屋だけど、実は僕の秘密基地というわけです。
写真は、1991年12月のものですが、この翌年、東京でデビューを果たしたウルフルズは迷走状態だったといいます。
たぶん、その頃だと思うんですが、ある日、松本くんから電話があり、「今度大阪行く時に、ウチの事務所のヤツを連れて行きますわ。神原さんが作ってるカンテのメニューやチラシの話をしたら興味を持ったみたいなんで。」ということでした。
数日後、松本くんが連れて来てくれたのが松田義人くんで、彼は事務所「タイスケ」の社員で、ウルフルズの会報を手描きで作っているらしく、その日、何冊かいただきましたが、その手書きっぶりからは凄まじいエネルギーを感じました。
僕が作ったメニューや割引券やマッチを見せたら、すごく乗って来てくれて、印刷物でこんなに盛り上がれるなんて、それまでのカンテではないことでしたね。
この時の松田くんが25年後、僕の本を作ってくれるなんて、想像もしませんでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?