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『チャイの旅』ができるまで

第二章:カンテでの楽しかった日々
その13:カンテ資料館 <Junichi ! Junichi !! Junichi !!!>

リバティー君

 ウルフルズがツアーパンフの撮影にカンテにやって来た1998年の前年、ひとりの男の子(7歳)と知り合います。それが純一くん。

純一君のおかあさんが「カンテのギャラリーを借りたい」と、当時ブッキング担当だった僕のところに来たというのが事の始まりでした。

正確には、「息子が今描いている絵を、カンテのギャラリーで展示したら面白いと思ったので、参考までに金額を教えて欲しい」ということでした。
「息子さんて何歳ですか?」
「今7歳なんですよ。」
「・・・。」
「今すぐにというわけではないんですが、ここに飾ったら似合うだろうなって。」
「1日1万円で最低5日間借りていただきますが、どうでしょう?」
「で、どんな絵を描かれてるんですか?」
「全部ドローイングなんですが、けっこう私気に入ってるんです。今度描いた絵を持って来ますから見てもらえますか?」
「いいですよ。」

それから1週間後、おかあさんは絵のファイルを持って僕に会いに来ました。

 その中の1枚に、彼が6歳の時に描いた「リバティ君」がありました。
それまで絵はほとんど描かなかったのに、お母さんと一緒にN.Y.に行った時、自由の女神像を見るなり、紙とボールペンを持っていきなり描き出したということです。その後、たくさん絵を描き出したので、ポートフォリオ(作品集)としてファイルしていたものを僕に見せてくれたのでした。

「これは子供の絵だけど、僕の知ってる子供の絵じゃないな。」というのがその時の素直な感想でした。

ちょうどその頃、僕はカンテに買ってもらったマックのパソコンを使い始めたばかりで、日々、「Photoshop」と「PageMaker」の勉強をしていたこともあり、
「このファイル貸してもらえますか?ポストカードにして出力してみたいんだけど。」
「いいですよ。来週また来ますから。」

 僕はその絵をスキャナーでパソコンに取り込み、レタッチしたものをポストカードサイズにレイアウトして、エプソンのプリンターで色んな紙に印刷してみました。画材ショップ「Too」で白い紙、画用紙、ケント紙、等々を買い込んで。

最終的にいいなと思ったのは「レオバルキー」という再生紙でした。生成りっぽい紙で、インクジェットでも紙にインクがにじまず、「レオバルキー」に直接ボールペンで描いたような絵に仕上がりました。

1週間後、そのポストカードを見せながらおかあさんと話をするうちに、僕の方からある提案をすることになります。
「年末年始はギャラリーの借り手がいないので、純一君の個展をしませんか?無料で。」
タイトルは「 Junichi I Like Drawing Act.1」に決定。

 上の写真はその時、ギャラリーに置いてあった自由の女神のボールペンを左手に持ってギャラリーを撮影したものです。
ギャラリーに架けた額はおかあさんの手作りで、中の絵はギャラリー用に描いたドローイングや僕がパソコンで拡大した絵や着色したものもありました。
だから「純一」ではなくて「Junichi」。
僕の中では「純一君とおかあさんと僕の3人のユニット名」だという風に想定した展覧会でした。

 なかなかにシンプルで落ち着いた雰囲気の個展でした。
 個展は、年を越して1月4日ごろから初めて10日ごろまで、少し絵を架け替えて続けました。タイトルも「 Junichi I Like Drawing Act.2」と変えて。

 なぜ、変えたのかというと、僕は個人的に「2」という数字があまり好きではなく、できれば早く2回目の個展を済ませたかったのです。つまり、僕の中ではもう既に、3回目の個展を考えていたことになります。
 それぐらい、純一君の絵を描くスピードは早かったし、次の個展を開いても十分絵は描いてくれるだろうと予測できていました。

 さて、「その11」でウルフルズがカンテで写真を撮ってツアーパンフを作ったという話をしましたが、そのパンフがカンテに2冊届き、一部はカンテスタッフの回覧用に、一部は保管用に手元に置いていたある日、純一君のおかあさんがやってきたのでそのパンフを見せたら、
「これジュンに見せたいので貸してくれませんか?」
「いいよ」
と渡して1週間後、写真を見た純一君が数枚の絵を描いてくれた中の1枚が「トータス&シロ」です。

うまいですね、やっぱり。

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