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『すずめの戸締まり』は観客に"見られる"ことで紡がれる物語。新海誠のパラフィクション【ネタバレ注意(君の名は。天気の子を含む)】

※『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』のネタバレを含みます

これは感想というレベルにまで至らない、これから感想を書く為の文章だ。
あまり文章を書くのは得意ではないが、見た後の鮮度がある気持ちは早めに書いておかなければならない。

この映画を見終わったときに一番最初に抱いた感情は「この作品に対して僕は感動していいのだろうか」というものだった。

これは、誰に向けられた物語だろうか。

偶然にも僕は新海誠と同じ長野県出身だ。震災当時も長野県で地面の揺れを感じ、TVの向こうに広がる被災地の映像を見守り、魔法少女まどかマギカの放送を楽しみにし、日に日に増えるACのCMの音に飽きていたころだ。
一言でいえば、僕は震災の当事者ではない。綺麗事を言えば同じ国で起きた災害なのだから当事者という自覚を持つべきだが、軽い気持ちで当事者を名乗ることは許されないと思う。

震災がテーマとして扱われていることは既に口コミで広がっているので、まだ見ていなくても、この作品に対して既に認識している人は多いはずだ。
震災の記憶がトラウマな人はショックを受けるかもしれない。だからと言って、この映画を見ることを制限しようとする行為には反対だ。
それが許されるのは、当事者である被災した人達だけだろう。


物語における共通認識と受け手の内面

監督は「どの年代も取りこぼさないようなエンターテインメント映画を目指した」とインタビューで語っている。
それは、誰が見ても分かりやすく理解しやすいような映画という事ではない。

人の手によって作られる物語は、ある程度の共通認識に支えられて成立している。例えば、人が立って歩くこと、太陽が沈んだら夜になること。そんな現実世界の常識を前提として作られている。
しかし、フィクション作品では現実世界では考えられないような常識を前提とするものもある。空を飛んだり、手からカメハメ波を出したり、あるい剣と魔法の世界など。
この場合は作品の中での常識として、作中での背景、会話、人の容姿、あるいは登場人物が直接セリフで説明を行うことで補完される。
幸い僕ら日本人はアニメやゲーム文化が盛んな国に生まれ、幼いころからそういう文化・作品に一度は触れてきたはずだ。だから、現実世界にはないフィクション要素があっても許容できる「ある程度の共通認識」がある。

『君の名は。』では彗星が落ちてくるというフィクション。『天気の子』では天気から晴れが消え、雨が降り続けるというフィクション。
少なくとも僕は現実で自分の街に彗星が落ちてくる光景を見たことは無いし、雨が降り続けて水没する東京を見たことは無い。
だから、本来なら作中の人物たちと同様に泣いたり笑ったりはできないはずだ。
それでも人は感情移入することができる。「ある程度の共通認識」から想像をし、作中の人物と視点を共有し感情移入することで、それらの光景に対して自分自身の感情を抱くことがてきる。

『すずめの戸締まり』では、共通認識として「地震」が利用されている。
地震が起きたら、僕らの生活に悪い影響が起こる。大地震が起きたらダイジンの言葉の通り「たくさん人が死ぬ」。
これはもちろん、この国に大きな震災があったからだ。その記憶や経験を元に、地震というものの共通認識を持っている。
だからこの作品に対しても、共通認識を元に自分自身の感情を抱くことができる。

だが、『君の名は。』や『天気の子』とは決定的な違いがある。
それは、『すずめの戸締まり』で描かれる日本がノンフィクションであることだ。
現実世界の地震は勿論あのミミズによって引き起こされるわけではない。だが、あの世界の日本は間違いなく東日本大震災が起きた世界だ。

作中では緊急地震速報のアラームが何度も鳴り響く。本物とは音は違う物の、その音が耳を通るたびに客席で体を強張らせた人も少なくないはずだ。
「あの音が鳴ったら、もしかしたらこれから何か恐ろしいことが起きる」
そんな人間としての防衛本能と共通認識によって、現実世界と映画という空想の世界がリンクを始める。
東京上空でのミミズとの対峙。あのミミズが地上に落ちたら何が起こるか。多くの人は、これから日本に起きると予測されている南海トラフを連想したはずだろう。
例え草太を要石にしてでも、止めなければいけない災害。あのシーンで僕は創作上の東京への感情と現実の東京への感情が交錯した。

極めつけは聞いたことのある懐メロとぐう聖の成年、芹澤の車で向かった東北の地で見たすずめのノートにある「3.11」の文字。
これにより、この映画の日本は糸守という街がある日本でもなく、雨が降り続けるようになった世界でもなく、我々が生きているこの日本そのものだという事がはっきりと示される。

すずめの母親は東日本震災の犠牲になってしまった。
それでも、どんな形で犠牲になったかということは描写されない。倫理的な理由もあるだろう。描写がされていないにも関わらず、多くの観客は悲痛な感情を抱いたはずだ。

なぜなら僕は、我々は、描写されなくてもその光景を"知っている"から。

あの頃の記憶がフラッシュバックする。その記憶によって、すずめの物語は補完される。記憶から想像し、紡がれた物語が僕の中で描かれる。
あのシーンで抱いた悲痛な感情は、すずめの母親の死よりも現実の震災で失われたものに対する感情による影響が大きいのだ。
すずめに対してだけ感情移入しているのではない。2011年当時、あの頃の自分自身にも感情移入している。
観客各々の震災の記憶によって補完されることで初めてこの物語にカタルシスが生まれ、母親の死と向きあう常世のシーンに心を動かされていく。
仮に震災の記憶が全くない人がこの映画を見たとしても、震災の記憶がある人と同じ感情を抱くことはできないだろう。

芹澤が今の東北の景色を見て「綺麗なところ」と言ったことに対してすずめが「これが綺麗…?」と答えたシーン。
見る人によって、景色の意義も大きく変わってしまう。

見る人の記憶や知識、心に寄って物語の意味が大きく変わる作品。
その人が"見ること"によって新しく各々の中で紡がれる作品。

そんな作品の概念としてパラフィクションというものがある。読むこと、見ること、触れることによってその人から新たに作品としての意義が生まれることだ。

僕は世の中にある映画や本、漫画やアニメ、そんな物語というのは全てパラフィクションの要素を少なからず持っていると考えている。
物語は受け手の内面によって変化する。監督から、作者から受け取る意義(メッセージ)は受け手によって変わるのだ。
作者が正確に受け手へメッセージを伝えたいなら、2時間もの物語を描く必要が無い。
日本語という言語。言葉として提示すれば、伝えたいことは正確に伝わるはずだろう。言語というのは「ある程度の共通認識」ではなく「完全な共通認識」としての情報を内包しているからだ。
しかし、物語という形にすることで受け手には容易に言語化できない体験をさせることができる。体験をさせることで受け手の内面に触れ、それを媒介として物語に新たな意義が生まれる。

『すずめの戸締まり』は、そんな受け手の内面に触れる時の力があまりにも大きすぎる。創作された空想の世界ではなく、現実の世界を彷彿とさせる描写が多い上、多くの人間が共通して記憶している物事が映画の世界でも同様に起きている。
「アニメと現実を混同するな」という声はどこかで聞いたことがあるかもしれない。この映画は「アニメと現実を混同させられる」映画なのだ。
それ故に、震災をテーマとして扱うことは勇気のいることだったと思う。
『君の名は。』や『天気の子』ではあくまで災害はメタファーとして扱っていた。だが、現実世界と同様の日本を舞台に直接的に震災という災害を扱ったという事は、新海誠に覚悟ができたという事なのだろう。
この映画を見た被災者の人に「トラウマが抉られた」「本当の震災はこんな恐怖とは比べ物にならない」「お金稼ぎに利用された」という声を寄せられたとしても、全て受け止める義務と権利が、この映画の制作側にはある。

ならば、直接被災した訳ではなく、当時のTVのニュースなどでしか震災を知らない僕に『すずめの戸締まり』を見た感想を書く覚悟はあるかどうか。
正直なところ今は無い。書けたとしても、自分の内面とは遠い上辺だけの言葉になってしまう。震災をよくテーマとして扱ったとか、声優の演技が良かっただとか。映像が綺麗だっただとか。
作中で扉を閉じるためには、その地にかつて居た人達の声を聞く必要があった。"あの地"に居た人達の声を聞いても居ない自分が簡単に扉を閉じる=感想を書くことはできない。

2011年の、あの時の記憶を一度しっかり思い出してから再度『すずめの戸締まり』を観賞することによって、別の物語として僕の中に紡がれる可能性がある。
これは東日本大震災よりも後に生まれた若い世代に対しても言えることだ。教科書で見ただけという人も、当時のニュース映像や経験した人の話を聞いてから再度観賞することで受ける印象が変化するかもしれない。
だからこそ、この映画は当事者である被災者の人には見て頂きたい作品であるし、その人たちがどう思ったかという事を僕は知りたい。当時の事やその後の事など、自分語りを中心としたありのままの感想を読みたい。そうすることで自分の中での『すずめの戸締まり』に新たな意義が生まれる可能性があるからだ。
これ自体は完全に僕のエゴだが、新海誠自身も同じ願望があってこの映画を作っていると思う。同じ"当事者ではない"あの時の記憶を持つ人間として。

『すずめの戸締まり』は"誰か"に向けられた作品でもあり、新海誠監督自身にも向けられた物語だ。
震災を風化させない、というのはあくまでその次点としての意義を持つ。

風化といえば、恥ずかしながら見終わった後に気が付いたことがある。
すずめが神戸に立ち寄るシーンだ。
序盤から震災に関する作品だという事に気が付いているにも関わらず、神戸という地が描かれても阪神淡路大震災のことが完全に頭から抜けていた。
これも見る人によっては、風化させずしっかりとあの出来事の事を心に刻んでいる人にはすぐにピンときたはずだ。
東日本大震災はまだ記憶に新しく、自分の中でも大きな出来事だったから頭に残っていた。
風化というのは、こういうことなんだろう。身をもって自覚した。


セカイ系から紡がれる世界、世界から紡がれたセカイ


「"世界"っていう言葉がある 私は 中学のころまで 世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた… でも どうしてだろう…? 私の携帯は誰にも届かない…ねぇ、私はどこにいるの? 」

映画「ほしのこえ」より

『ほしのこえ』で出てくるセリフだ。セカイ系という言葉の概念をよく表していると思う。

僕は新海作品の中でも災害をテーマとした『君の名は。』以降の作品よりもそれ以前の作品、特に『雲の向こう、約束の場所』や『ほしのこえ』のようなよりセカイ系的要素が強い作品の方が好きだ。
セカイ系というのは、主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が抽象的な大問題に直結する作品群のことだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/セカイ系#)
世界と言うには小さく、限られた数人で構成された関係性(セカイ)によって世界の命運は左右され、受け手はセカイ(ヒロイン)と世界どちらを選ぶかを迫られる。
『天気の子』ではこのセカイによって崩れてしまった世界に生きる「きみとぼく」を肯定した。セカイによって崩されるより前に、世界なんてものは既に崩れている。そんな世界でも今生きてる僕たちはきっと大丈夫なんだと。
『すずめの戸締まり』では、そんな崩れた世界――『君の名は。』や『天気の子』のように分かりやすく彩られたフィクションではない現実と地続きの世界を見た時、本当に大丈夫なのか。それを受け手に問いかけている。
それは今後――感想として、口コミとして、評価として示されていくだろう。

新海誠の世界はきっと、災害をテーマとした作品群を経て「携帯の電波が届く場所」から大きく広がったのだと思う。
そんな新海誠が現実の世界、災害という共通認識を借りずに描く世界とセカイを僕は期待している。

まあセカイ系が好きなだけなんだけれどね。

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