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2女教皇(2021年2月18日)

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今日のサビアンシンボルは、水瓶座30度「アーダスの咲いている野原」です。17日19:55頃30度に入ります。

水瓶座は最後の度数で、個人性は消去され完全無色になります。アーダスの咲いている野原は、臨死体験によく見られるお花畑に近いもので、あちらとこちらを繋ぐ境界領域です。地球から出て太陽系の外に向かう際、通過する場所で、その印象はお花畑に限らず、私の場合は、屋台の並ぶお祭りの風景だったり、しだれ柳の並ぶ川沿いの道だったりします。共通する点は、懐かしい夕方の匂いのする、黄昏時でかたわれどきです。

この領域を越えると、恒星にたどり着きますが、越えるためには、星のカードの女性が裸なように、身ぐるみはがされる必要があります。この裸の女性は、恒星に存在の根拠を置くエーテル体を表しています。伝統や文化によって着る服は異なり、服はローカルなルールをそのまま表しています。そして物質肉体を持つこと自体が、地球オリジナルです。

肉体を持った私から離れると、肉体に根拠を置いていた私は消えます。それこそが死であり、肉体の死とは、肉体を持った私の死です。恒星に包まれ、主客の境がなくなるとき、アーダスの咲いている野原を越えると言ってもよいでしょう。小さな私の死を越えると、大きな私へ回帰します。

水瓶座から魚座へ移行する最後の瞬間に、小さな私は死にます。個人が持っている、個性だと思っていた癖やこだわりは意味を成さなくなり、自分だと思っていた自分は消えてなくなります。この空白とも言える瞬間は、意識喪失することが多いように思います。たとえばチャネリング状態では、個人は眠りの中にいて、意識は途絶えます。我に返ったとき「私今なんか言ってた?」となります。

個人が個人を越えるとき、必ずお迎えが来ています。上から下りてくるものがなければ、下から上がることはできず、下から上がらなければ、上から下りてくるものに気がつきません。水瓶座30度は魚座に呼ばれています。

今日のカードは2女教皇。このカードは、生命の樹ではケテルとティファレトを繋ぎ、その中間地点には深淵ダートがあります。ケテルから外宇宙へ飛び出そうとするとき、関所のようなダートを越える必要があります。これは水瓶座30度のアーダスの咲いている野原でありお花畑です。

2という数字は、外から見れば、二つのものを比較し選択することができますが、2に入り込むと、主体が生まれ、対象を意識することになります。対象を意識した瞬間、対象に捕まります。主体と客体は相対的なので、主体は客体の影響を対象化できなければ、自主性を持つこともできず、客体も主体に対して同じです。

常に光の側にある私は、背中に影を背負い、影の影響を見ることもできなければ、影から逃れることもできません。どちらも自分だからで、どちらかが主導権を握ることもありません。

このカードは、方向づけられた方へ無意識的に向かいますが、そのとき従うルーツでありストーリーは、女教皇の持つ書物に書かれています。生命の樹の中央の柱を貫通するこのカードは、自身のルートからはみ出してもいけないし、よそ見をしてもいけないと言っています。ケテルとティファレトを繋ぎ、天と地を繋ぐようにたたずむ女教皇は、繋ぎ役として動くことはありません。

女教皇の持つ書物を読むとき、小さな私は眠り、大きな私に繋がります。エーテル界にいる女教皇の元で、その書物を読みます。水瓶座30度では個人性が消え丸裸になりますが、女教皇は分厚い衣類に包まれています。女教皇の衣類は、限定されたローカルルールに従っておらず、宇宙全体の記録を持ち、宇宙の法則を提示しています。丸裸になると、女教皇の衣類から特定の星の部分を身に着けることができ、つまり恒星に存在の根拠を置く、本質的自己が肉化します。

エーテル界にいる女教皇は、エーテル網の一部であり、決して動くことなくすべてに繋がります。水瓶座もまた、部分でなくネットワークです。

水瓶座最後の30度で、地上にいる肉体を持った私は静かに眠りにつき、女教皇の持つ書物を読みます。29度で目覚めた自己は、30度でその根拠を知り、身に纏い、魚座へと入る準備をしています。

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