過去を丸ごと抱きしめて、今からラッキー人生になる方法。
そしてその空気感を感じることで、何が出来るかと言う「感動」出来る。
自分がしてきたことを今振り返ってみると、二十代のアクティブなバンド時代から、三十代は一気にその行動範囲狭めて、と触れ合うコミュニティを限定化したのは、この「感じる」感覚を思い出すためだったのかもしれない。
家族と本当に素で話せる友達だけと日々過ごすことで、自分が子どもの頃に感じていた感覚を思い出していったのかもしれない。
今、量子力学で宇宙や人間や悟りやワンネスというスピリチュアルと言われてきたことが科学的に証明されてきたけれど、それは本来人間の感覚をフルで使えば、体感出来ることなんじゃないか?とも思う。それは僕が中学生の時に、一人で書いていた詩の中でも言ってた。
僕は宇宙で、宇宙は僕だ。
宇宙の中の地球の上に立つ僕がいて、
僕の細胞の一つもまた宇宙で、
その宇宙の中にも地球があって
そこにまた僕がいる。それが永遠に続いている…
みたいな詩を書いていたんだけど、これがだんだんリアルに証明されていってる気がしている。
ここまで変人である必要はないけど、人はこの社会で生きていくために、生まれた時にある感覚を少しずつ閉じていくことで、この社会のルールに適応していくのかもしれない。
学校というルールや会社というルール。いろんなルールに適応するために、本来あった感覚を閉じる必要があったのかもしれない。
でもこのネット時代になり、またそのルールが変わり始めて、本来の感覚を取り戻すことが、これからの時代を生きていくために必要なのかもしれないなと思う。
インターネットの普及で、今までバレなかった嘘がめちゃくちゃバレて大変なことになることが増えた気がする。
社会に適応するために我慢して、我慢するために嘘をついて、ストレスを解消するために、違う自分を作り出して…みたいなことが、すぐバレてその我慢が結果に繋がらない時代。
「自分らしく生きる」が結果になる時代!
でも自分らしく!ってなんかキラキラしてるイメージあるかもだけど、別にそんなことはない。
他と合わせないとかでもない。
ただ自分の心に湧いてくるものをしっかり自分が理解した上で、目の前の選択をしていけばいいと思う。
自分を無視しない。
これだけでめちゃくちゃ楽に生きられる。
社会のルールといういつの間にか自分の中に作り出した「当たり前」という檻から、一つ一つ自分の声を自分が聞いてあげる。
ただそれだけでいい。
それだけで、この世界の美しさに気づけるようになってくる。
だからその一つの方法として、ミニマム化が最近流行っているのかもね。
自分の生活からいろいろ一旦手放していくことで、「当たり前の檻」の存在に気づいていく。
でもいきなり会社を辞めたり、離婚したり、引っ越ししたりする必要もない。
まずは通勤ルートを変えてみたり、寝る時間と起きる時間を変えてみたり、食べものを変えてみたり、ウォーキングを始めてみたりとかでも良いと思う。
そして先の予定を考えるんじゃなくて、今、まさに「今」自分が何を感じているかに注目するだけでいい。
そんなことで人生変わるかい!と思うかも知れないけど、めちゃめちゃ変わる…笑
「感動」するとこで、何が起きるかというと、ラッキーが起こる。
味わうことで、閉じた感覚を取り戻し、日常の小さな喜びに気づけるようになると、日々の中の感動する回数が増える。
そして感動がまた喜びセンサーの精度を上げて、さらに恵みに気づく。
すると毎日がラッキーの連続であることに気づいていく。
でもネガティヴになると、一気にその喜びセンサーは消えて見えなくなる。
その閉じた感覚を取り戻すために、最初、僕は何をしていたんだろうと振り返ってみた。
もちろん閉じてるから、ネガティヴな時間も多かった。
するとやっぱりこの世界は暗く見えたし、辛く見えてた。
アドレナリン系の瞬発的幸せや喜び感覚を求めていた二十代。たしかに、凄い幸せを感じる瞬間は行動しただけあったけど、その直後には必ずドーンという虚しさや孤独があった。
そして三十代。
結婚して、人生を「味わう」と決めて、気づいたのは、感覚を取り戻す大きな要素は家族だった。
親、奥さん、子ども。
僕の場合、毎日接するのは、奥さんと子どもだったけど、家族と接した時にたくさんの感情が湧いてることを体感した。
家族と接することで湧いてくる喜びはもちろんだったけど、それよりネガティヴ感情の強さ?が凄かった。
家族を通して映し出された過去の自分の汚れた姿を味わうことはなかなかヘビーだった。
これは家族に相談出来ないことだった。
この時一人で味わってたら、危なかった。
僕はたまたま親友がカウンセラーであったので、ほんと無理な時は話を聞いてくれた。
閉じた感覚を取り戻す。
書いたら一言で言える簡単な言葉になってしまうけど、過去の抑制してきた小さな塵の集まりは、大きな山となって、僕の前に現れた。
親や家族っていうのは、その鏡的存在になってくれるのかもしれない。
受け入れられないから、怒りとして、それを家族や親にぶつけることもできる。
「目の前にいる獣が、自分」なんて受け入れられない。
でもその獣の服を脱がせて、その中の子どもを抱きしめることが出来るのも、自分しか出来ない。
一つ一つ獣の皮を剥ぎ落としていく、戻ってくる感覚。
その時はただ自分を守るために、被っていったその武装した自分に
もう大丈夫だよ!って言ってやれるのは
自分しかいない。
でも一人でするより、誰か一人でもそんな気持ちをシェア出来る場所は作っておくといいと思う。
友達でもいい。兄弟でもいい。今なら同じ感覚の仲間も見つけやすい時代になった。
オンラインサロンやコミュニティー。
安全に自分をシェア出来る場所があれば、きっと昔の自分を抱きしめてやれる。
僕は自分で毎日考えまくて、自己解決した気になって、あんまり人に相談しないタイプだったから、めちゃくちゃ時間かかったのかもなと今思う。
日々のいろんな湧いてくる感情をシェアすることは、きっとは新しい世界へ自分を連れて行ってくれる気がする。
味わい感動することで、過去の自分を統合し、「今」の幸せを発見し、感動する。すると、感動の連鎖が起こって、ラッキーが起こり続ける。
インターネットの普及で、誰でもそれが簡単に出来る時代になった。
格差なんてない。全員幸せに生きられる時代の変換期に俺たちは生きられているのかもしれない。
全員幸せになっちゃえ!
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