ロジスティック曲線


 ※※※

40才を過ぎたアキラは、昨日初潮を迎えた娘が懸命に自らと向き合っている時、15年前、その頃の恋人に伝えた言葉を思い出していた。


「あなたは、私を生涯覚えてる」

くすっとアキラは笑う。

その言葉を聞く前夜、アキラは関係を断つ言葉を翌朝に男から聞かされるような気はしていた。男は優柔不断だったので、言いっぱなしで終わるような気がアキラにはしていた。だが同時に、これっきりでその男と会うことはないようにも思えていた。

「あなたは、私をずっと覚えてる」

とつい言ってしまったのは負け惜しみではなかった。本当に、その優柔不断な男が私をずっと覚えているような気がしたからだ。

娘は、今朝私がつくった弁当を悲しげに称賛しながら学校に向かった。アキラは、娘の背中を追いながら、15年前のあの男の声を聞いていた。

その声にはイライラした。私を生涯縛り続ける声のようにも思えた。そんな不自由さを吹き飛ばすために別れの言葉を吐くのが私の役割だったが、それは男のほうからやってきた。

その別れの言葉を投げかけられたあと、私が懸命に返したのが上の言葉だった。

それは怨嗟だったのだろうか。男はどうやらそう捉えているようだった。

私としては、とアキラは思う。そう言い返すことで、彼に生涯取り憑きたかった。亡霊となって、その男の山と谷のすべての局面に立ち会いたかった。私はずっとあなたに取り憑くだろうという意味で発した言葉だったのだが、それはすぐに嘘だと自分でもわかった。

 ※※※

男の人生の山と谷に取り憑くことは可能だったのだろうか。

その優柔不断な表情の奥には普遍的な悲しみはあった。その男の悲しみの表情を撫でるうちに、アキラの心は自由になった。男でもなく悲しみでもなく、何か永遠のものが私に取り憑いている気にさせた。

男の悲しみに惹かれる自分が、決定的な何かを獲得していないことも感じてはいた。多重な意味の言葉を積み重ねられる男の発語、その発語に被せるように連射する自分の声。その声自体が、相手を自分の陣地に囲い込もうとしていた。

男というか、親密になった人間の深みにアキラはたどり着くことがいつもできなかった。たどり着いたところに、水源のような冷たさと黒さとゆらぎがあるのだろうか。

あるようには思えなかった。私はいつも、と彼女は思う。

「私はいつも避ける」

ゆっくりとそのコミュニケーションは堕ちていく。その堕ち方を、いつも私は止めることができない。堕ちる前の私は、研磨される前の宝石のように、土にまみれている。

女の友達でも、男の恋人でもいつもそうなのだが、惜しいところで私のほうから避ける。

やはり、苦笑だった。

アキラは水源を求めていた。だが一方では、その水源が実際に現れたとしてたら困ったことになるとわかっていた。

だからアキラは結婚を選んだ。

夫の瞳はいまだにかわいらしい時があった。そのことにアキラは感謝していた。けれども、なぜかそのことが後ろめたかった。この頃は毎日のほとんど、私は何を考えて過ごしてるんだろう。娘のことはほんの少し、夫のことはもっと少ない。だけど、ふたりとも、私の穴をふさぐ大きなコルクになっている。

だが私の穴をふさぐそのふたつの蓋をとったとしても、たいした亡霊は出てこない。穴の奥に見知らぬかわいい亡霊があると見せかけながら、アキラはそれらの亡霊の陳腐さを見抜いていた。

ふたつの穴の中には黒い渦がたくさんあり、客観的なアキラは自分のそのふたつの穴を覗き込む。それは、曲線の上部にへこみがある感じではなく、やっぱり、アキラの心のかたちを崩していくような穴だった。

 ※※※

娘が帰ってきた。彼女は痛そうだった。

私は、娘をいたわった。そのいたわりの言葉を投げかけている時と投げかけたあと、自分の感情の波が、その感情の曲線が少し落ち着くような気がした。

また、その感情に時々現れる穴が、娘の訴える痛みによってさらに塞がれるような気もした。

不思議なことでもなんでもないが、娘のほうがこの頃は私を避ける。私も娘に話しかける気力がなく、私達はただ笑うことが多い。その笑いは空虚だが、同時に互いの穴をふさぎ、互いが持つ線の揺らぎをそれ以上揺らがないよう押し留めている。

私たちは、互いが知らない人々との出会いの経験と記憶に苛まれている。そんな経験と記憶は、もうあなたも5才じゃないんだから、私には全面的にフォローすることなんてできない。

人生の山と谷のあちこちにできるデコボコと穴が、私達を昔のような親子ではなくしていくだろう。でも、

とアキラは思った。

もう私は、自分の言葉を、私以外の人に一生覚えていてほしい年ではなくなったようだ。点と点のつながりは線ではなく、その線が黒になったり黄色になったり、青になったり、虹のようになったり、そんなふうに変色し続けるだけで喜べる年に私はなったようだ。



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