バナナブレッドをさがして


2020年6月1日 09:14


ネットで情報をカナタが集めていると、大島弓子というマンガ家が描いた『バナナブレッドのプディング』という作品をどうしても読みたくなった。カナタはネタバレ情報など気にしないため、ネットでその作品の物語を全部読み、その作品のテーマも知ることができた。が、カナタは勝手に、『バナナブレッドのプディング』をカナタ風に解釈して読んだ。特に、主人公が自分の髪で自分の顔を隠すひとつのコマに魅せられた。
大学1年生の5月の日曜、カナタは自分の大学のある街の繁華街を、そのマンガを探して歩くことにした。有名な大書店が3件ほどあるその古い街の、最初の書店にはそれは1冊もなかった。
2件目にはあったけれども、1000円以上する豪華本のほうしかなかった。お小遣いをケチるつもりのカナタはその豪華本は買う気がしなかった。またその豪華本は、日曜日なのに高校の制服を着た10代の女性が手にしていた。その女性は難しい顔をして豪華本を睨みつけていた。
3件目の大書店は2件目の書店から近かったが、あいにくそこには1冊もなかった。ネット購入がなんとなく好きになれないカナタは、あそこにあった豪華本をまだ買うかどうかは決めていないものの、2軒目の書店に戻ることにした。
すると、制服の女子高校生が、さすがに豪華本は書棚に戻していたが、その背表紙をまだ睨みつけていた。
周辺に客はいなかった。カナタは本屋で他人に話しかけたことなどなかったのだが、なんとなく、
「大島弓子?」
と、女子高校生の顔を覗いて言ってみた。
話しかけられたその10代の女性は最初は無視し、カナタが「そのマンガ、ずっと睨んでる」と続けてしゃべり終わったあと、その会話が自分に向けられているのだとわかったようだった。
「この豪華本しかなかったから、わたし、あっちの本屋に探しに行って」とカナタは言った。「あっちは1冊もなかったから諦めてこっちに戻ってきたの」
カナタは会ったこともない相手なのに自分が笑顔を浮かべていることが驚きだった。人生で初めての体験かもしれない。「普通のコミックスや文庫本はないのかしら?」
「ないんです」と、初めてその高校生は返事をした。「わたしはどちらかというと文庫本を狙ってるんですが」
「コミックス、高いものね」とカナタは言った。「高いわりに小さいし」
「でも文庫本は安いけど、表紙が大島弓子じゃない」と高校生は答えた。「文庫本って、その作品が表紙じゃなくて、普通の絵なんですよ」
「どうしてなんだろうね?」とカナタ。「ビジネス上の理由があるのかな」
気づけば、カナタはその女子高校生との会話が続いている、と自覚した。また、見知らぬ他人と話し続けるのも相手に悪い気もした。
「あ、すみません。ひとこと話しかけるつもりだったの」カナタは、こうした謝罪も自然に出てきたので、自分で驚いた。
「いえ、ありがとうこざいます。この作品に興味をもってもらって」と、高校生は大島弓子のアシスタントのような答えをした。
「買う?」カナタは高校生に聞いた。「買うならわたし、いやだけどアマゾンかなあ」

 ※※※

「わたしも、アマゾンきらい」と言ってその制服の10代は笑った。「でも、高いし」10代は再び書棚から『バナナブレッドのプディング』をとりだし、表紙を見つめた。「でも、これしかないし」
それを聞いて、カナタはまた会話を続けてしまった。「そう、そこにしか真実がないような気がして」カナタも『バナナブレッドのプディング』を睨みつけていた。「わたしもいっぱい読んできたけど、小説も含めて」
「そうなんですか?」と高校生は素早く答えた。「わたしは、終盤に出てくるらしい、主人公がその長い髪で顔を隠す、というのに惹かれるんです」
「わたしも」とカナタは言った。「まだ読んでないから、なんでそうなるのかネットのネタバレブログでしか知らないんだけど、イマイチ意味がつかめなくて」
「やっぱり、顔を見られたくないんでしょうか」と、その制服の高校生は言った。「でも、髪で隠すのは露骨すぎないでしょうか?」
「わたしはそう思わないなあ」とカナタ。「わたしも時々、そんな気分になるもの。特に、大教室に入っていく瞬間」
「大学だと教室の大きさが違うんですね」高校生はゆっくりと豪華本を棚に戻しながら言った。「そんな大きな教室でも、顔を隠したくなるんですか?」
「高校の頃よりはマシだけど」とカナタは答えた。「そういうのがいやで、わたし、修学旅行に行かなかったもん」

 ※※※

カナタは、大学に入ってからは誰にも話したことがなかった修学旅行をドタキャンしたエピソードを、初めて会ったその女子高生に話していた。
エピソードの終盤、修学旅行はやめて自転車で走っていった観光地で出会った親子のことを触れたあたりだった。集まってきた小さなカモメが何かしゃべっているのかと聞く母に対して、幼女はカモメのセリフを答えていた。
カモメのセリフを少女が代弁するシーンと、それを見て高3のカナタが吐きそうになったくだりは、今日、その高校生が初めて大きな声を出した瞬間だった。「やった! すごい。それは吐きそうになりますよね」
「わかる?」とカナタ。「わたしはいまだにわからない。けれども、本当に戻しそうになったよ」
あの時の少女にはカモメの声は聞こえていなかった。母の要望のままにカモメの思いを想像して答えたのだが、その、幼児が母の要望のままに答える、というメカニズムがカナタには我慢できなかった。
彼女たちは、いつのまにかスターバックスに入っていた。コーヒー代が厳しい高校生の分は、カナタが支払った。ずいぶん高校生は恐縮したが、カナタは久しぶりに清々しい気分になっていた。
「わたしはふだん着る服が見つからなくて」と高校生は話した。「だから、日曜でも制服を着てるんです、みっともない」
「むしろ汚れているのはわたしのほうだよ」とカナタは言った。「あの、修学旅行をドタキャンしてそのあと吐きそうになったのがわたしの人生のピークだな」
「どうして、生きているのはこんなにつらいんだろう」と高校生は言った。
カナタは少し考えて、「やっぱりこの本、きみにあげるよ」と言った。さっきまでいた本屋では高校生はいつまでも買うかどうか躊躇していたので、結局その本を買ったのはカナタだった。
カナタは鞄から『バナナブレッドのプディング』豪華本を取り出し、目の前の高校生の隣にある鞄の上に置いた。
高校生はずいぶん恐縮したが、カナタは豪華本をその制服の高校生に押し付けた。

 ※※※

だから『バナナブレッドのプディング』の物語はネットでは知っているけれども、まだカナタは読んでいなかった。その本を手渡した高校生とはアドレス交換し、メールで近況を語り合う仲となっている。彼女は来年大学生になるそうだ。
そうしたエピソードを、カナタは父と先輩にだけ話した。父は、
「日曜に制服って、美しいなあ」と適当に答えた。先輩は、
「運命の出会いって憧れる」と、ピント外れながらも、その後先輩が外国で長期間過ごすことになる人生を予言しているような感想を漏らした。
この頃から、カナタは鏡を見つめることもなく、母のアキラのように地下の洞窟に潜り込むこともなく、彼女の特性である、くよくよする前にまずは空や成層圏を見上げるようになった。
そして、それから20年くらい過ぎたあと、たしかに、
「日曜の制服は美しい」
と、自分の子どもが高校生になり、時々日曜日に制服で出かける姿を見て彼女は思った。


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