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家族トライブ〜感情が支配するファーストプレイス

1.それは「感情」のコミュニケーション


■ファーストプレイス(家族)の謎


しばらく「家族」をテーマに短い文章を書いてみたいと思う。

高校内居場所カフェは居場所であり「サードプレイス」、そして職場や(子どもにとっての)授業/学校は「セカンドプレイス」である。そして、家族/家庭は「ファーストプレイス」ということになる。

日本やアメリカではサードプレイスがなくなったため、子どもに諸問題が集中している。だから僕は、編集者から支援者に転身して25年以上、このサードプレイスづくりに集中してきた。

それは、西成高校の「となりカフェ」に見られるように一定の成果は出せたと思っている。

同時に僕はここ25年以上、個人面談支援(カウンセリングやソーシャルワーク)を通して、保護者や子どもや若者たちを支援してきた。

その中で一貫して感じるのは、「家族」というある種の「魔物」である。

別に、家族内で度々起こる凶悪事件を指しているのではなく、家族においては、他のプレイス(仕事や居場所)ではなかなか生じない独特の対立が巻き起こる。

それはたいていは「家族だから」と諦められている。家族なのでどうしても喧嘩してしまう、家族なのでどうしても距離が近すぎる等々。

家族だからトラブルは仕方がない。逆に、家族だから想像していなかった親密な出来事も起こる。それらハプニングは、距離の近い家族なのですべて仕方がないと諦められている。

■家族とは感情

家族は魔物と僕は思わず書いてしまったが、実はそれほど神秘的なものでもないと思う。

家族内コミュニケーションで第一に立ち上がるのは、何よりも、

「感情」

である。同じようなテーマの会話を職場で行なっていても、それは意見対立にはほぼならないのだが、家族で同じような何気ない話題をしていても、なぜか意見の対立へとつながっていく。

その話題は本当に平凡なもので、趣味・テレビニュース・過去の体験等々、人間が空き時間に何気なく行なう会話が、それが家族で行なっている場合、なぜか言い合いになったりする。

言い合いを避ける人は、沈黙になり、何かを我慢する。その我慢の中には感情的うねりが蓄えられている。

家族内コミュニケーションにおいては、なぜかこうした「感情」的たかまりや

うねり、沈黙を抱えやすい。

ある人たちはその感情のまま対立しぶつかるが、ある人たちはひたすらその感情を抱えたまま我慢する。

■アタッチメントと恋愛

これは単に「距離」の問題だろうか。セカンドプレイスでの活動を終え、ファーストプレイスであるイエに人は帰る(だが児童養護施設の子どもは、帰ってもセカンドプレイスのまま。ファーストプレイスがない)。

帰った家は普通は狭く、互いの距離感もセカンドプレイスよりは圧倒的に近い。

距離は物理的なものだけでもなく、共通体験の積み重ねが心理的距離の近さを生む。子どもが2才頃までは、これは「アタッチメント」として必要な近さで、あるいは恋愛体験→結婚へとつながる親密さの醸成にとっては必要な近さでもある。

けれども、アタッチメントとしての近さ、恋愛の醸成としての近さの時間が過ぎたあと、多くは数年後には離れていく宿命にある、近さだ。

だが多くの場合、アタッチメントと恋愛を、家族内の関係は引きずっている。子どもが中学生になった、経済も含め生活全体を考えなければいけない夫婦になった時、あれだけ必要で甘美だったアタッチメントと恋愛は、「感情」という名の黒いものに変化している。

その黒い感情が、その変わらぬ距離の近さをベースに、互いに侵食し合う。

アタッチメント時代は(赤ちゃんを)抱いて歌っておっぱいを飲ませていればよかった、恋愛時代は互いを見つめ合い触れ合うだけでよかった。その時期が終わった後、その距離の近さはそのまま、ネガティブな「ひっかかり」のようなものが黒い感情として互いを襲う。

家族とは、こうした独特の「感情」のコミュニケーションをもとにしたシステムだと、僕は思っている。


2.アタッチメントと恋愛の、「事後的」甘美

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前回、家族でのコミュニケーションを「感情のコミュニケーション」だとした。

感情のコミュニケーションと名付けざるをえないほど、家族という内部では、何気ないことで摩擦が起こってしまう。他人相手だとそれほど腹も立たないし悲しくもならずに割り切れることが、いざ家族(特に親子と夫婦)内でコミュニケーションする時、何気ないことを引き金に齟齬が起きる。

対立する当事者たちの内面では、感情的爆発と同時に、「?」も並走している。

なぜこんな些細なことで腹が立ってしまうのか、あるいは涙がでてきてしまうのか。当事者たちにもわからない。

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その謎の根源について、前回僕は、親子関係と夫婦関係の原点である「アタッチメント」期と「恋愛」期にあるのではないか、とした。。

アタッチメント時代は(赤ちゃんを)抱いて歌っておっぱいを飲ませていればよかった、恋愛時代は互いを見つめ合い触れ合うだけでよかった。その時期が終わった後、その距離の近さはそのまま、ネガティブな「ひっかかり」のようなものが黒い感情として互いを襲う。

20年近くに及ぶ子育ての中で、僕は、1才半頃までの「アタッチメント」を育む時期が最も重要だと思う。

たとえば、乳児院〜児童養護施設という集団養育のなかで薄いアタッチメントしか経験しなかった人は(そこに施設内虐待等あればなおさら)、いくつになっても他者を信頼できず、身近な者が荷物を取ろうと手を上げたけで身構えたりする。アタッチメントを獲得しないと、他者に対する信頼を直感的に得ることができない。

また、恋愛の初期において、互いが衝動的に惹かれ合う時期も、甘く甘美であり、それは性欲と結びつき、理性のコントロールの外に置かれる。

この時期はむしろ現実のセックスのほうが邪魔になり、紋切り的行動様式が問われるセックスを行なうことがむしろ、恋愛初期の甘美な欲望的世界を薄めてしまう。

一生懸命(紋切り的に)セックスすることが、逆にその恋愛に秘められているイメージの洪水を矮小化する。恋愛が神秘的なものではなくなり、決められた物語として矮小化してしまう。

「欲望」とはフロイト用語だが、「イメージに焦がれる」ということで、それぞれが抱く美的性的倫理的な諸イメージを、ある一人の人物に同一化してしまうことだ。このイメージの発動があって初めて、人は一義的欲求(食欲や排泄欲や射精欲等)から脱出することができる(欲求は生物学的、欲望はイメージ、欲動は生命の根底というフロイトの3分類)。

いわば、イメージを抱くことで、人はサルではなくなる。そのイメージの欲望の象徴が初期の恋愛であり、この時期は記憶も一部が強調されたり全体が曖昧になってしまう。

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紋切りの罠に収斂されず、アタッチメント期を言語以前の乳児の奔放さに寄り添い、恋愛の欲望のイメージを爆発させると、その奔放さや爆発が完ぺきに近ければ近いほど、なぜか記憶が消失する。

甘美なアタッチメントと恋愛が完成に近づくと、なぜか細かい記憶が薄くなり、事後的な快楽だけが残る。

赤ちゃんの笑み、恋人の瞳、そうした断片的記憶はもちろんあるが、甘美なはずの細かい記憶が曖昧になってしまう。

そう、記憶は言語的に組み立てるものだから、「ことばの外」にあるそれらの甘美さをうまく捉えることができない。

言い換えると、それらの甘美さは「事後的に」よかったものとしてしか捉えられない。

それは、魔法による夢、のようなものだ。ことばでは捉えられないイメージと身体の本流がそこにはある。

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「家族」、その根幹である親子関係と夫婦関係の原点には、こうした「ことばの外のイメージ」がある。

それらのイメージは、とにかく「よかったもの」として事後的に捉えられている。なぜそれが「よかった」のかは、当事者たちにも答えられない。

けれども、その「中身のない甘美な記憶」が、家族のコアにある。その時期があるから、いまの生活に追われる時期も耐えられると自分たちに言い聞かせている。

「事後的に形成された甘美さ」が家族の根幹にあり、目の前の親やパートナーは、その甘美さの中心にいた人なのだ。

そうしたパーフェクトな事後的記憶のせいで、今という現実がいつも「なにか足りない」ものとなる。よく覚えてはいないが、この人とは、この子とは完ぺきにつながりあった実感がある。

でもなぜ、いまこの人と、この子と、わかりあえないのだろうか。あれほど完ぺきな甘い記憶があるのに。

こうした残念さかが、感情の本流となって家族内の人々を襲うのではないか、と僕は想像している。

3.アタッチメントの呪縛がほどける

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前回、前々回と、乳児期のアタッチメントや恋愛期の濃密さが「家族」の原点となり、その明確な記憶を消失することで、逆にそれらが理想化されることを簡単に書いた。

その記憶の「イデア」化が、我々の人間関係の原点となり、我々にコミュニュケーション能力を与える。

だが皮肉にも、獲得したコミュニケーション能力と反比例するように、我々の原点であるアタッチメントの記憶をなくし(乳児期)、その記憶は理想化されていく(恋愛期以降)。

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今回は親子関係の移り変わりをみてみよう。

決定的なアタッチメント期がすぎ、他者への信頼関係という技術(というか、一般的な人間の属性そのもの)を獲得し、我々は小学生高学年となり、やがてそれぞれの人生にとっては決定的な思春期に突入する。

同時に、その人らしい自我がようやく確立され、その人にとっての人間関係が始まる。

その時、それら人間関係を確立できるための土台を与えてくれた(主として)親は背景化する。親が背景化し、我々は友人や恋人を作ることになる。

その後は、誰もが体験する青春が始まる。中にはひきこもりになり、他者関係の希薄な思春期を送る人もいるが、メディアやネットを通して、「親以外のアタッチメント」を求める点では同じである。

中には、「風俗」店において、人工的ではあるが「濃厚な接触」を求める場合もある。

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こうした時期を通り抜け、次にやってくるのが、元々のアタッチメント提供者である「親との別れ」だ。

それは現代日本では、たぶん20代前半に訪れる人が多いだろう。いや、ここ最近の20年程度では、20代後半かもしれない。

その時、アタッチメント提供者であるその人間(親)は、アタッチメント受給者である人間(子ども)からすると、フツーの少し老いた大人として目の前にたたずむ。

そのたたずみは何とも寂しげで、かといってそこから離れる時期はすでに来てしまっている。

だから離れていき、離れた後は、あれだけ感情的に対立していたその人と喧嘩しなくなる。

その時点が、子どもにとって、「感情のコミュニケーション」の場であるそのファーストプレイス(家族/家庭)から離れた瞬間だ。

以降、親子はほとんど対立しない。対立するとすれば、大人同士の対立になり、それは金銭が絡むことになる(この段階で起こる「事件」と、思春期時の「感情の対立」事件とはそもそもフェイズが異なる)。

親子間の感情的対立が極端に少なくなった時、その時が親からの自立を示す。それ以降、子どもがゲットできた「自由と孤独」は、同時に抱く「アタッチメントへの郷愁」とトレードオフになる。

それが「大人になる」ということだ。


4.死んだ父を許す

アタッチメント期と恋愛期の濃密かつ「失われた」コミュニケーションが原点にあるため、それ以降の時期が大半を占める家族たち(家族トライブ〜部族)は、常に争う。

その争いにほぼ根拠はない。ささいな言葉が発火点となる。友人や同僚たちとの間では冗談で済まされるそのシニフィアンが、家族内では暴力の原点になる。その原因は、暴力の加害者も被害者もわからない。

なぜか、イライラしてしまう。そして、なぜか筋肉が衝動的に動き、殴ったり蹴ったり怒鳴ったりする。

そのあと後悔し、謝り、心理学的にさまざまな解釈を施される悪の行動に解釈されるのだが、当事者たちにとってはその原因がやはりわからない。

最近では、発達障害などとも「科学」は解釈するが、その、科学的解釈とは別の次元で加害者と被害者は暴力の現場をつくりだす。

科学が解釈するその暴力の、原因が当事者たちには理解できない。動く筋肉、高まる感情、翌日は謝罪してしまう不安定な根拠。さまざまなことがわからない。

怒りの原因がわからない。

こうしたわからなさこそが、「家族」の最大の謎だろう。

愛着/アタッチメントは形成されている。だから、他者を信頼する力を獲得した当事者は多い。

けれども、家族間で時に血みどろの暴力に発展する。殺人事件などは氷山の一角で、世の中の家族たちにおいては、多くの殺伐とした暴力が発動しているだろう。

身体的殺傷のほか、心理的に重大なトラウマもそれは含み、家族トライブ(部族)の成員たちには予想もしない悲劇に到達してしまうこともある。

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悲劇に到達する家族もあれば、まったく別の平穏を発見する家族もある。

それは、「死者」である家族成員との語り直しの段階に入る時だ。

家族成員は、年配者から順に亡くなる。時には若くして交通事故や病気で死ぬ家族成員もいることだろう。

その多くは突然やってくる別離である。感情的に対立する家族間コミュニケーションに到達していないプレ思春期的な家族は別にして、感情的に対立し始めた以降の通常の家族間で、その成員たちの誰かが亡くなると、変な空虚感が家族という「部族」を襲う。

怒りの対象がいなくなる。通夜や葬式を通過し、その怒りの対象が不在になったことは確かめられるのだが、怒りの当事者は、その感情的対立点をどこにもっていったらいいかわからない。

だから、その怒りは封印される。

その封印は長い時間に渡って継続される(トラウマ化)。それは、生き残った当事者が、死んだ加害者たちと同じ年齢になった頃、思い出される。

封印が解かれる。

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怒りとトラウマの封印が解かれた時、人はどうなるのだろう。

僕の場合、それはポジティブなものとなって僕の50代の人生全般を覆った。

50代前半のあの頃、仕事でどこかの道を歩いていた時、突然怒りの対象の死んだ父が脳裏に現れ、僕に笑いかけた。

そこからさまざまな記憶が蘇ってきたが、なぜだか僕はそれらを許してしまった。これまでのように怒るのもバカバカしくなったのだ。

すると父の「色彩」が徐々に薄くなっていき、僕に握手を求めてきたような気がした。

だから僕は、心理的に握手した。握手という語らいを行なった。恥ずかしいが、

「ありがとう、父ちゃん」

と独り言を言ってしまった。あれだけ憎んでいた亡き父親を突然許し、僕自身の人生も僕によって許した。

その時の「感情」は本当に不思議で、それまでの憎しみは、そこからの許しを時間をかけて準備していた奇妙な準備時間だったことにそれ以降気づいた。

「家族」は長い間家族内成員を憎しみあうが、憎しみのあとは、長い時間をかけてゆっくりとその成因を許すことがある。僕の場合はそうだった。

その許しの原因もわからない。

「感情」が引き起こすさまざまな出来事の中にその怒りも許しも含まれると思う。

5.家族(ファーストプレイス)の中にサードプレイスをつくる

家族はファーストプレイス、職場や学校はセカンドプレイスと言われる。そしてサードプレイスは、ヨーロッパではカフェやバール、アメリカでもバーなのかな、日本ではおそらく「銭湯」がそれだった。

けれども、アメリカと日本ではこのサードプレイスが崩壊している。「街の銭湯」は、毎日つぶれている。

僕は、自分の法人の実践の中で、「セカンドプレイスの中にサードプレイスをつくる」ということを追求してきた。

具体的には、高校の中に「居場所カフェ」をつくるということだ。その「第一号店」である大阪府立西成高校「となりカフェ」は、今年で10周年を迎えている。

主に親の貧困によって生きづらさ(虐待・ステップファミリー等)を抱える10代の人々にとって、そのファーストプレイス(家庭・家族)は過酷である。普通考えられているそれとは違い、彼女ら彼らにとって決してくつろげる場所ではない。

けれども、彼女ら彼らにとってのセカンドプレイスである「学校」「授業」も、緊張の連続である。

友達関係に苦しむ。いじめの被害にあう。虐待の影響により、勉強がわからない(理解力が育成されていない)。

緊張の連続である家庭よりはましかもしれないが、学校も別の意味で緊張を強いられる。

現代の、主としてアンダークラス(一部ミドルクラスも)の高校生にとって、家庭も学校も、リラックスできないことが多い。ホンネも弱音もそこでは吐けず、失敗も許されない、ハードな場所だ。

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かといって、部外者が唱える「街のサードプレイス」、たとえば子ども食堂にも行きにくい。子ども食堂でごはんを提供されることは、自分が貧困だとカムアウトすることだからだ。

だから、僕の知る限り、深刻な貧困問題を抱える生徒は子ども食堂を利用しない。そこを利用するのは、地域ネットワークを親が構築できる、コミュニケーション能力に長けたミドルクラスのファミリーたちだ。

だから、アンダークラスの子どもたちは「公園」にたむろするか、友人宅を渡り歩く。だがそれらの場所は危険に満ち溢れている。具体的には、そこは「性」とトレードオフの場所になる。

日本の、生きるのがつらい10代にとって、サードプレイスがない。最もサードプレイスを求める人々に、サードプレイスが遠い。

だから僕は、「となりカフェ」をはじめとして、学校の中にサードプレイスをつくることを模索してきた。

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だが問題は「家族」である。ネグレクトや心理的(怒鳴る)虐待を中心に、日本の家庭には暴力が渦巻く。ちなみに虐待の最大の加害者は「実母」なので、そこにジェンダー問題は実はそれほど重要ではなく、親の子に対する支配/所有の問題のほうが大きいだろう。

子を支配し所有する親にとって、家の中に、「子ども専用のサードプレイス」をつくることなど論外だろう。

けれども、どんなかたちでもいいので、家の中にサードプレイスを構築できれば、子どもたちは短時間でも楽になれる。

それはさまざまな変則的スタイルで実現すればいいと僕は思っている。たとえば、

①スマホとイヤホンで音楽を聴いたり動画を見る

②iPadとイヤホンでゲームをする

③スマホやタブレットで友達とLINEをする

などだ。

「攻殻機動隊」ではないが、「ネットの世界は広大」だ。ある程度の制限を設けながら、ネット空間を使うことは、「サードプレイス」と接触することと同義になる。

またネットに疲れた時、音楽を聴いたり動画(映画等のコンテンツ含む)を視聴することも、サードプレイスを呼び込むことになる。

1人でイヤホンで音楽を聴く。その曲は最初は友達の影響下にあるものだろうが、10代によってはそこから逸脱する。もちろん、逸脱しない10代がほとんどだろうが、中には逸脱する人もいる。

それらの10代は、逸脱のしかたによっては、オザケンに流れ流線形に流れビョークに到達し、やがてクラッシュとベルベッドアンダーグラウンドとニコに流れ、ストーンズとビートルズと出会うだろう。

そうした王道でもなく、マイケルジャクソンやスティービーワンダーやダイアナロスと出会う若者もいるだろう。

そことは別の、矢野顕子やYMOやはっぴぃえんどと出会う10代もいるだろう。

映画であれば、スターウォーズの全作品に始まり、ルーカスの学生時代の実験作品に行く10代もいるかもしれない。

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つまり、家の中のサードプレイスとは、「文化」そのものだ。

まあ、上に書いた諸作品は、僕が高校生の頃、自分のファーストプレイス(家)の中で出会った諸作品だけれども、現代の10代は、ゲーム作品を中心にさまざまなサードプレイスと出会っていると思う。

その生活自体は「ひきこもり」そのものかもしれないが、親の知らないところでサードプレイスに出会う、それがその10代を強くしている。

そして、そのサードプレイスとの出会いを応援する、リアルな「サードプレイス大人」の存在も必要だろう。

そのサードプレイス大人は、言い換えると「変な大人」のことであり、具体的には僕(田中)だったりする。

その変な大人は、リアルなベルベッドアンダーグラウンドであり、THX1138(ルーカス作品の主人公)なのだが、1138が自由を得ようともがいたように、現実世界で「自由」を夢見る。

そんな感じで、プライベート領域(家庭)に、文化と自由を変則的に導入することが、「サードプレイス」の現実的提案ということになる。




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