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僕らは再びJRで敦賀まで行き、そこから舞鶴行きの普通列車に乗り換えた。

というのも、とうとう僕が、僕のママにヒカリを紹介する気になったからだ。

昨日、アキラさんの家を出て、僕のワンルームにヒカリと戻った時、僕は彼女に言ってみた。「実は、敦賀からJRで1時間のところにママはひとりで住んでるんだよ」

「ママって、先輩のママよね? あ、ひかるの」と、僕のことを名前で言い換えてヒカリは言った。

「うん」僕は彼女に答えた。僕は父を2年前に癌で亡くした。父はママと年齢が20才離れていいたが、それでも62才の早逝だった。父がなんの仕事をしていたのか、僕は彼が死ぬまでよくわからなかったけれども、どうやらフリーライターとかNPOとかの仕事をしていたらしかった。

僕にとって父の仕事はあまり重要ではなく、ママと比べてだいぶ歳の離れた父が、いつもいろいろな話をしてくれた、それらのことがすべて宝物だった。

「そうよね、私もそう」と、ヒカリは言った。

僕のママはいつも言っていた。ママは19才で父と出会い、20才で僕を産んだ。そして、28才で看護師になった。

「だから、ヒカリが18才で僕と結婚しても喜んでくれると思う」僕はヒカリに言った。「仲間ができたって」

「お母さんのほうが私より1年遅く結婚したのね」ヒカリは車窓から外を眺めていた。舞鶴行きのJRの風景は単調な景色だった。

それから列車の天井を見ると、天井に近いところにアゲハ蝶がとまっていた。その黒は美しく、時々黒い羽をゆっくりと前後させた。

アゲハ蝶の目がその頭部のどのへんにあるのか僕は知らなかったけれども、ゆっくり羽を前後させながら、蝶は僕らをみているように感じた。

「ゆっくりと、バラードを歌っているみたい」とヒカリは言った。

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ママは駅に来てくれた。そこから僕たちはママのマンションへと歩いていった。途中のローソンでいろいろ買い込み、最近の政治の話なんかの雑談をしながらマンションに着いた。

そのマンションは町役場の隣にあり、ママが務める病院も窓から見えた。

「ママ、便利だね」僕はママを見て言った。

僕とヒカリはこの1ヶ月、東北や伊豆や広島や四国を旅してきて、それはたった数週間だったのだけれども、ずいぶん時間がたったような気がしていた。僕は、岩手や高知に言ったことをママに告げた。

「ママ、僕はずいぶん歳をとったような気がするよ」僕はダイニングルームの椅子に座って言った。隣にヒカリも座った。

「あなたたち、結婚するんでしょ?」ママは直球で聞いてきた。

「なんでわかるの?」僕は驚いて聞いた。

「当然、ゴーストの囁きよ」とママは言い、僕もヒカリもママも大笑いした。

「その、結婚の報告だよ、ママ」僕はママの目を見て言った。

「ありがとう」ママは椅子から立ち、冷蔵庫を開けてワインとベルギービールを取り出し、グラスを3つ並べた。

それから我々は、チアーズした。

「けどね、ひかる」ママはビールを一口飲んで言った。「これからあなたたちが学ぶのは、秘密と嘘の関係ね」

「お母さん、嘘ってついていいんですか?」18才らしく、ヒカリはストレートに聞いた。「わたし、いつも嘘をつきたくなるの」

「当然」もうママのグラスからベルギービールは消え、彼女は二杯目をついでいた。「私とパパなんて」

「パパって、僕の?」僕はついつい確認した。

「当たり前!」ママは窓から町役場を見て言った。「出会った頃、お互いの歳をごまかして言ったんだ」

「どれくらい嘘つきました?」ヒカリはワインを飲みながら、身を乗り出して聞いた。

「わたしもパパも10歳ずつサバを読んだから」ママはクスリと笑った。「わたしたち、同じ30才になったよ!」

「パパは40才で、ママは20才だったよね?」僕は聞いた。

「いえいえ、わたしは19才だったよ」ママは笑いながら言った。「それでね、わたしたちややこしいから歳なんて確認せず、そのまま和歌山の世界遺産に旅に出たのよ」

「いつわかったの、お互いの年?」僕はママに笑いながら問いかけた。

「結婚の時とかの書類でわかってたんだけど」ママはワインに換えていた。「そういえばパパが死ぬまで歳をちゃんと確認しなかったわねえ」と言って笑った。

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「和歌山の山の中の温泉で」ママはワインを飲んで言った。「私たちは変なお風呂に入った」

それは有名な壺型の1人用温泉で、ママとパパは熱い熱いその温泉に交代で入ったという。

「2人が入るのが限界なスペースで、鍵もかけてよかったから」ママはワイングラスを置いて言った。「なんか、そういう雰囲気になるのよ」

「でも、幽霊が出てきたりして?」僕はベルギービールに口をつけ、言った。

「なんでわかる?」ママはワインを置いて、我々を見た。

「わたしたちも、東北の温泉で出会ったんですよ」と言ったのはヒカリだった。「出会ったというか、私が足を引っ張られたんだけど」

そう、僕が岩手でバイトするヒカリを迎えにいって、帰りに立ち寄った平泉の旅館で、我々は何者かと出会ったのだった。

「それは怖いね」ママはヒカリの肩に手を置いた。

「だから、先輩の部屋に移動したんです」ヒカリはあの日を思い出したのか、少し俯いて言った。「ひかるさんは優しかった」

「ひかるも怖かったんじゃあ?」ママは僕に聞いた。

僕も実は足を引っ張られる感じがして、一晩中丸まって寝た。そんなふうに2人に言ってみると、ママはこう言った。

「私もね、その壺湯で溺れそうになったの」

「たぶん」とヒカリは言った。「壺は『秘密』なんだよ」

「ということは」と僕。「『嘘』は何なんだろ?」

「私はアゲハ蝶の黒だと思う」と繋げたのはママだった。

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「いま思うと、壺湯がもつ秘密の感じは怖かった」ママは言った。

「たぶん、壺自体は秘密ではないんですよ」と僕はつなげた。「秘密という何でもないことを、そんな田舎の壺が頑なに守っているなんて」

「和歌山の壺湯は不気味で」ママは真面目な顔をして言った。「恥ずかしいけど、パパが壺湯で接近してきた時、わたしは別の人に足を引っ張られそうになったよ」

「おとうさんは守ってくれました?」と素朴に聞いたのはヒカリだった。僕は、誰が守ったり守られたりするという言葉をその頃最も忌み嫌っていたので、それを自然に発するヒカリが不思議だった。

「実際、わたしは壺の底なし沼に入る感じだったので」ママは両肩に両腕を回して言った。「そこから引き上げてくれるのはパパしかいなかったよ」

「怖い」とヒカリは言い、ママの肩に手を置いた。

「それがわたしの『秘密』体験」ママはワインを飲み干して言った。「秘密は誰にでもあるよ」

「もう一つの『嘘』体験は?」僕はワインをグラスに注いで言った。「さっき言ってた年齢のこと?」

「いえいえ、嘘とは、いつも嘘をつく人をアゲハ蝶が観察してるということなんだよ」とママは言った。

僕は、いきなりアゲハ蝶という言葉が出てきたので驚いたが、ここに来るJRで、蝶の不思議な眼球を意識していたのでそれほど意外でもなかった。

「人は誰でも嘘をつくけど,それがどうしてか秘密になっていく」ママは言った。「わたしとパパは,そういうのがなんとなくバカバカしくて、秘密の確立を崩そうといつも努力してたよ」

「秘密と嘘って何が違うんですか?」ヒカリは声をひそめて言った。彼女はもうワインを4杯ほど飲んでいただろう。彼女は続けて言った。

「仮にわたしに隠し子がいたとして」

19才のヒカリが言う隠し子という言葉が不自然で、僕もママも笑ってしまった。「君は19才なんだから、いくつの時の子だ、その隠し子は?」僕は思わずワインを飲んで言った。

「当然、16才の時の子ども」ヒカリは真面目な顔をして言った。それは本当に、16才の時に赤ちゃんを産んだような顔だった。

「アゲハ蝶は、平然と『わたしが産んだ子ではありません』と言いなさい、と嘘を指定してくるのよ」ママは窓の外に見える勤め先の病院を見つめながら言った。「蝶にそう言われると、わたしたちは逆らえないの」

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なぜ、アゲハ蝶の嘘に逆らえないのだろう。僕は素朴な問いをママに投げかけてみた。

「そりゃあ、ひかる、絶対的な嘘が世の中には存在するからよ!」ママは何倍目かのベルギービールを飲み干した後、笑っていった。「あなただって、絶対的な嘘をときどきつくでしょ?」

「うん、犯罪的な嘘をつく」と僕は漏らした。「時々、致命的な嘘をつくんだ」

「まだ20才くらいなのにねえ」ママはビールを飲んで言った。「ヒカリは?」

「はい、時々私も嘘をつきます」ママに聞かれて、ヒカリはしょんぼりしていた。

僕は何となく腹が立って、「思春期だって、嘘をつくよ!」とついついママに反論した。「汚れ切ってるけど」

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「ひかる、汚辱は美しいんだよ」だんだん酔っ払ってきたママの最後の言葉はそれで、グラスをテーブルに置いた後、バタンとソファにママは横になった。「適当に風呂に入ってね」

「汚辱って汚いからこそ汚辱なんじゃないかしら」ヒカリは、ママが寝た後、こんな潔癖な言葉を漏らして風呂に入りに行った。

その言葉の後、黒いアゲハ蝶がその部屋に入ってきたように僕は思った。その蝶には全然存在感はなかった。この存在感のない存在が,人々が何気なくつく嘘を嘘として固定し秘密にしていく。その秘密の継続が、我々に後ろめたさを抱かせる。

僕ら若い人たちは,そうした秘密の偽善性を暴く立場にあるのだが,我々こそがいつの間にか秘密の守り人になってしまっている。

偽善を嫌い遠ざけてきた僕らこそが、その偽善を構築する嘘に包まれ、それを秘密化して継続させていく。

その秘密には,妊娠や裏切りなどの深刻なものが多く含まれる。だからこそ,その秘密は神聖なものとなる。嘘をつくという偽善に包まれながら,その嘘に守られた秘密は神聖化されている。

だからこそ、ある種の嘘は美しいと僕は思う。ママはそれらの嘘を守り続け,それが同時に秘密になっている。

たぶん,40才を過ぎてはじめて、思春期が本当に終わって初めて,秘密と嘘の美しさが僕にはわかるんだろう。

その美しさと残酷さと厳しさが。

(長編『水滴のすべて』8章より)

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